研究紹介

社会科学研究会報告書

水俣病の悲劇を
繰り返さないために
−水俣病の経験から学ぶもの−

水俣病の発生から昭和43年の
政府統一見解の発表まで

水俣病に関する社会科学的研究会

水俣病が1956(昭和31)年に公式に発見されて半世紀が経過しました。被害の発生及び拡大防止の観点から水俣病の歴史を振り返ってみると、そこに数多くの問題点が指摘されます。どのような対策を、いつ、どこでとるべきであったか、なぜそれはできなかったか、どうすれば可能になったか、これらは水俣病発生の初期段階における最も重要な課題です。水俣病に関する社会科学的研究会では、水俣病問題に長年関わってきた研究者やジャーナリストらによる討論などを経て、政府が水俣病を公害病と認めた1968(昭和43)年までの歴史的経緯と問題点を整理し、教訓をまとめました。その成果は出版物(平成11年)として刊行されていますが、ここにその全文を掲載します。

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この報告書は以下のように出版されています。
「水俣病の悲劇を繰り返さないために−水俣病の経験から学ぶもの−」
橋本道夫編,中央法規(2000年)

「水俣病に関する社会科学的研究会」報告書のとりまとめに当たって

平成11年12月
水俣病に関する社会科学的研究会
座長 橋本道夫

このたび国立水俣病総合研究センターに「水俣病に関する社会科学的研究会」の報告書を提出するはこびに至ったことは、座長として感慨深いものがある。

この研究会の目的は、政府統一見解に至る水俣病の原因究明と対応の過程に絞られた。奇病発見以来12年を要した政府の政策決定の遅れが水俣病の新潟における再発をはじめとする悲惨な被害の拡大をまねく経緯についての検証は、行政にとって厳しい反省を迫るばかりでなく、水俣病事件にさまざまな立場で関わってきた各委員にとっても、厳しい議論であったに違いない。

国立水俣病総合研究センターとして、研究会を立ち上げてこうした課題に取り組むことについて、既に水俣病公式発見から40年以上が過ぎ遅すぎたという批判もあるかもしれないが、平成7(1995)年9月に水俣病問題の政府解決策を患者団体が受け入れ、国の責任を追及する紛争が和解するまでは、国立の研究所が、全く立場を異にした研究者を集めて、「教訓」の論議を行うことなど期待しようも無かった。政府解決策を受け入れなかった関西訴訟は係争中であるが、政治的には一段落をみ、水俣では「もやい直し」が提唱されるなど、社会的にも和解の機運が生じてきた。

最初の会議で私が座長を引き受けることになったが、いかに政治的に一段落したとはいえ、委員の顔ぶれを見たところ、これだけ立場の違う人を揃えて果たして議論がまとまるものかどうか不安を抱いていた。しかし、これは次第に杞憂であったことが分かった。

事務局には、毎回各委員から出た意見を整理してもらい、討論の素材とする文案作成や参考資料の収集をしてもらった。事務局は委員の意見に忠実に素材を作成してくれ、議論に枠を設けるようなことはなかった。また、当初は1年あまりで報告書をまとめてほしいという要望があったようだが、この点も、十分議論を尽くすことを優先させてもらうこととした。

それぞれの立場から、自らの体験を基に闊達な議論が交わされ、時には書かれた人にとっては不愉快な思いをする事実も出された。また、行政や企業に対しても厳しい意見が出された。

しかし、回を重ね、次第に議論が煮詰まってくると、全く立場を異にしていると思われる委員の間で共通した認識がえられ、そこから教訓を導く作業は順調に進行していった。結局、両論併記や個人的見解をそのまま残すという箇所もほとんど残らなかった。

ここに、水俣病の失敗を二度と繰り返さないためのこの研究目的のため、大局的観点から難しい議論の進行に参加、協力していただいたすべての委員に敬意を表し、この事務局として努力していただいた方々にも座長として深く感謝したい。

「水俣病に関する社会科学的研究会」委員名簿(肩書きは当時)
浅野直人
福岡大学法学部教授
宇井 純
沖縄大学法経学部教授
岡嶋 透
医療法人杏和会城南病院院長・大分医科大学名誉教授
高峰 武
熊本日日新聞編集局部長
富樫貞夫
熊本大学法学部教授
中西準子
横浜国立大学環境科学研究センター教授
(座長)橋本道夫
(社)海外環境協力センター顧問
原田正純
熊本大学医学部助教授
藤木素士
熊本県環境センター館長・筑波大学名誉教授
三嶋 功
水俣市立明水園名誉園長
「水俣病に関する社会科学的研究会」の報告書について

平成11年12月
環境庁国立水俣病総合研究センター
所長 滝澤行雄

「水俣病に関する社会科学的研究会」は、平成7(1995)年の水俣病の政治解決のときに閣議決定された「水俣病問題の解決に当たっての内閣総理大臣談話」の趣旨に基づき、国立水俣病総合研究センター(以下「国水研」という。)の研究プロジェクトとして平成9(1997)年7月に設置された。

ここでは、水俣病の悲劇、特に被害が拡大してしまった経緯について、行政機関、企業、研究機関、被害者等の各主体の対応を中心に社会科学的観点から整理・考察し、日本のみならず諸外国の政府の政策決定や企業の環境汚染対策に活かせるような教訓を導くことを目的とした。

この研究会では、まず研究会が扱う期間を、昭和31年5月の水俣病公式発見を経て昭和43年9月の政府統一見解に至るまでに限ることとして、国水研が平成9年4月から、水俣病発見初期の治療や研究に携わった医師、研究者、これまで長年にわたり水俣病問題について研究してきた研究者、現代の環境問題の研究者などの人選を始めた。

そして、10名の委員の承諾をいただき、平成9年7月5日、熊本市内で第1回研究会を開催し、橋本道夫氏に座長をお願いすることを決定した。

研究会は、国水研国際・総合研究部社会科学室が事務局を務め、橋本座長のご指導のもとに報告書作成に向けた整理作業に当たったが、重要な経緯・事実の選択、考察ポイント設定など、全く白紙の状態から始めていただいた。

毎回、委員から出された意見を整理した「素案」をつくり、さらにそれをもとに内容を深めていただいた。次第に検討すべき項目が増え、第5回(平成10年5月8、9日)以降は二日にわたる研究討議を行った。

第6回(平成10年7月19、20日)から具体的な教訓の抽出に入り、その後は、新たな事実や考察を追加しながら、表現の細部にわたる検討を100頁以上に及ぶ全文について繰り返し、報告書の完成に至った。

事実経過や評価については、残されている文書や証言を確認し、正確を期したが、なお誤った解釈や触れられていない重要な事実があることと思う。したがって、この報告書に書かれたことが最終的な結論であるわけではなく、多くの方からのご批判を期待するものである。

最後に、長期間にわたり、ご多忙な中、この研究会の議論や報告書の作成に多くの時間と労力を惜しまなかった座長始め委員各位に深甚の敬意を表したい。

【参考】 
水俣病問題の解決に当たっての内閣総理大臣談話

平成7年12月15日
閣議決定

公害の原点ともいうべき水俣病問題が、その発生から四十年を経て、多くの方々のご努力により、今般、当事者の間で合意が成立し、その解決をみることができました。

水俣病問題については、既に解決をみている公害健康被害の補償等に関する法律による認定患者の方々の補償問題とは別に、認定を受けられない方々の救済に関して、今日に至るまで未解決の問題が残されてまいりました。

私は、この問題の早期解決のため、与党、地元自治体とも緊密な連携をとりつつ、誠心誠意努力してまいりました。重い歴史を背負いながらも苦渋の決断をされた各団体の方々をはじめこの間の関係者のご努力に対し、心から敬意を表したいと思います。

解決に当たり、私は、苦しみと無念の思いの中で亡くなられた方々に深い哀悼の念をささげますとともに、多年にわたり筆舌に尽くしがたい苦悩を強いられてこられた多くの方々の癒しがたい心情を思うとき、誠に申し訳ないという気持ちで一杯であります。

水俣病問題は、深刻な健康被害をもたらしたばかりでなく、地域住民の絆が損なわれるなど広範かつ甚大な影響を地域社会に及ぼしました。

私は、この解決を契機として、水俣病の関係地域の方々が、一日も早く、ともに手を取り合って、心豊かに暮らすことができる地域社会が築かれるよう、心から願うものであります。

今、水俣病問題の発生から今日までを振り返る時、政府としてはその時々においてできる限りの努力をしてきたと考えますが、新潟での第二の水俣病の発生を含め、水俣病の原因の確定や企業に対する的確な対応をするまでに、結果として長期間を要したことについて率直に反省しなければならないと思います。また、私は、このような悲惨な公害は、決して再び繰り返されてはならないとの決意を新たにしているものであります。

政府は、今般の解決に当たり、総合対策医療事業、チッソ支援、地域の再生・振興などについて、地元自治体と協力しながら施策を推進してまいりますとともに、水俣病の悲劇を教訓として謙虚に学び、我が国の環境政策を一層進展させ、さらに、世界の国々に対し、我が国の経験や技術を活かして積極的な協力を行うなど国際的な貢献をしてまいる所存であります。