水俣病と水銀について

水俣病とは

水俣病の発生と背景

水俣病の発生及びその概要

水俣病とは、化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物を、魚、エビ、カニ、貝などの魚介類が直接エラや消化管から吸収して、あるいは食物連鎖を通じて体内に高濃度に蓄積し、これを日常的にたくさん食べた住民の間に発生した中毒性の神経疾患です。
熊本県水俣湾周辺を中心とする八代海沿岸で発生し、始めは原因の分からない神経疾患として扱われていました。その後新潟県阿賀野川流域においても発生が確認されました。
水俣湾周辺の水俣病については、昭和31年(1956)5月、初めて患者の発生が報告され、その年の末には、52人の患者が確認されました。この疾患は昭和32年(1957)以降「水俣病」と呼ばれるようになりました。
阿賀野川流域の水俣病については、昭和40年(1965)5月に患者発生が報告され、その年の7月には26人の患者とそのうち5名の死亡が確認されました。水俣病患者の認定は、公害健康被害の補償等に関する法律に基づき関係各県の知事及び国によって行われます。

水俣病が起こった社会的背景

水俣病の原因企業は、チッソ(株)(水俣工場)と昭和電工(株)(鹿瀬工場)です。両者は、第2次世界大戦後の復興に続いて高度経済成長のさなかにあった日本を支え、発展させる原動力の役目を担っていた化学工業分野の企業です。
中でもチッソは高い開発力を持ち、独自の技術で次々と生産設備を更新して製品の増産に努めました。チッソの成長に歩調を合わせるように水俣の町も急速に発展を遂げました。そして、工場と従業員の納める税額が水俣市の税収の50%を超えるなどしたため、チッソは地域の経済や行政に大きな力を持つようになり、水俣はいわゆる企業城下町へと変貌しました。
こうして地域社会の支持を受け、安い労働力、豊富な用水、自前の発電力そして天草の石灰岩や石炭など手近にある原材料を活用し、また廃棄物や廃水の処理についても規制が整備されておらず、チッソは増産を重ねました。一方で労働環境や自然環境への配慮は後回しにされていました。

水俣病の医学的解説

メチル水銀中毒と神経系

メチル水銀は神経系の特定部位に強い傷害を起こします(下図ピンク部分)。その結果それぞれの部位が持つ役割に応じた障害が起こります。これが以下のような様々な症状となって現れるのが水俣病の特徴です。

メチル水銀による神経系の傷害

  • ❶ 運動失調
    わけもなく転ぶ。まっすぐ歩けない。ボタンを掛けたり、衣服の着脱など日常の動作が思うようにできない。
  • ❶ 構音障害
    ことばが不明瞭。
  • ❷ 視野狭窄
    まっすぐ見たときに周辺が見えにくい。
  • ❸ 感覚障害
    触れているのは分かるが手のひらに書かれた数字が分からない。触った物の形や大きさが分からない。ざらざらとすべすべの区別が分からない。
  • ❹ 運動障害
    力が入りにくい。筋肉がけいれんを起こしやすい。
  • ❺ 聴力障害
    音の識別ができない。相手の言うことが聞き取れない。
  • ❻ 感覚障害
    じんじんするしびれ。触られても感じにくい。熱いものや冷たいものに触っても感じにくい。

メチル水銀におかされた脳

例 右大脳水平断
重症のまま長期間保存した患者の脳です。全体的に強い萎縮を示していますが、視力の中枢(鳥距野↑↑印)、聴力の中枢(横側頭回↑印)などは、水俣病患者に共通してみられる傷害部位です。

例 小脳水平断
上と同じ人の小脳で、こちらも強い萎縮を示しています。小脳の神経細胞が虫部(↑印)を除いてほぼ完全に失われています。

メチル水銀が工場から人体に至る経路

最も大量にメチル水銀が排出されたと考えられる時期のアセトアルデヒド製造工程(新5期)の模式図です。
メチル水銀は反応器内で、アセチレンと水からアセトアルデヒドが作られる際、副反応によって生成しました。
その後真空蒸発器から第1精留塔に混入し、廃液(ドレン)と共に排出されました。

工場から流れ出たメチル水銀は海の生物を汚染しました。海の中ではエラなどから直接メチル水銀が魚介類に濃縮されました。また下の図のように食物連鎖によってもメチル水銀が魚介類に蓄積されます。こうして汚染された魚介類を人が食べることで環境中のメチル水銀は人体に入りました。これらは、生物濃縮と呼ばれます。