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水俣病の悲劇を繰り返さないために −水俣病の経験から学ぶもの−
水俣病は、化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物を、魚介類が直接エラや腸管から吸収して、あるいは食物連鎖を通じて体内に高濃度に蓄積し、これを日常的に多量に食した住民の中に発生した中毒性の中枢神経疾患である。
しかし、当初は原因不明の特異な神経疾患として、熊本県水俣湾周辺を中心とする不知火海(八代海)沿岸で発生し、その後新潟県阿賀野川流域においても、発生が確認された。
図1 水俣病発生地域
(環境庁環境保健部「水俣病 その歴史と対策 1999」より)
熊本県水俣湾周辺の水俣病(以下「熊本水俣病」という。)については、昭和31(1956)年5月、初めて患者が報告され、その年の末には昭和28(1953)年12月から発生していた54人の患者とそのうち17人が死亡していることが確認された。この疾患は、昭和32(1957)年以降「水俣病」と呼ばれるようになった。
新潟県阿賀野川流域の水俣病(以下「新潟水俣病」という。)については、昭和40(1965)年5月に患者の発生が報告され、昭和40(1965)年7月には26人の患者とそのうち5名の死亡が確認された。
熊本水俣病患者の認定は、法律(注)に基づき熊本県知事及び鹿児島県知事により行われ、両県知事により認定された水俣病患者は、平成11(1999)年11月末までに2,263人に上っている。水俣病の発生が報告されてから40年以上が経ち、同月末の生存患者数は895人である。
(注):(旧)公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法。現在は公害健康被害の補償等に関する法律。
新潟水俣病患者の認定は、新潟県知事及び
また、法律に基づいて水俣病と認定された患者のほか、平成7(1995)年12月、村山内閣の与党三党合意(自由民主党、日本社会党及び新党さきがけの三党の合意)に基づく水俣病問題の政府解決策により、行政上の救済措置として、「医学的に水俣病である蓋然性が低い」とされて法律によって水俣病とは認定されない者のうち、過去に通常のレベルを超えるメチル水銀化合物の曝露を受けており、かつ四肢末梢優位の感覚障害を有すると知事又は市長が認めた者に対して、国及び県の費用負担による医療給付とチッソ株式会社又は昭和電工株式会社による一時金の支払が行われることとなり、この対象者は11,152人(熊本・鹿児島関係10,353人、新潟関係799人)に上った。
水俣病は、患者の生命と健康に重大な被害を与えただけでなく、患者家族の生活、地域の自然環境・人間関係・経済活動などに対し、容易に回復しない深刻な被害を与えた。
しかし、平穏だった漁村に遅くとも昭和28(1953)年頃には奇妙な異変が生じ始めた。ネコが狂って走り回りながら海に飛び込み、カラスや海辺に生息する鳥たちが次々と落下して死に始めた。そして、その後、原因不明の病気が次々と住民を襲った。
それまで何らの健康上の不安をかかえていなかった住民の中から、手足にしびれやふるえが生じ、目の見える範囲が狭まり、耳が聞こえにくくなる人が出てきた。また、言葉がはっきりしゃべれなくなり、つまずいたりよろめいたりして普通には歩けない人も出てきた。さらには、けいれんを起こし、寝たきりの状態になる人も出てきた。特にこれらの症状が激しかった人は意識を失い、手足や身体を激しく動かし、昼夜の別なく叫び声をあげ、壁をかきむしったりしながら、発病から1ヶ月ほどで亡くなっていった。
さらに、出生の時から身体や精神の発達が遅れ、高度の運動障害があり、早期に死亡する幼児まで出るという悲劇が発生した。
原因が不明で、治療法もわからない病気に苦しむ患者や、肉親を看病する家族の悲しみや苦労は深刻で、働き手を失った家族の生活は行き詰まった。
昭和31(1956)年末までには54名の患者が確認され、そのうち17名が既に死亡していた。しかし、水俣病のもたらした悲劇や苦しみはこれだけに止まらなかった。病気がうつるのではないかという不安から、患者やその家族は近所で買い物もできないなどの差別を受け、近所や親族との人間関係は破壊された。また、自分の漁村に患者が発生したら、獲ってきた魚が売れなくなるので、患者として名乗り出ることすら止められた人々もいた。そして、患者や家族を差別していた住民も後には自身が患者となり、ある者は亡くなっていった。また、昭和34(1959)年には患者や家族が原因企業と強く疑われていたチッソ水俣工場に補償を求めることなどをしたため、企業城下町水俣の市民たちの反発も受け、このことが被害者を地域社会の片隅に押し込める大きな要因の一つとなった。
このような悲劇をもたらした水俣病は、日本が第二次世界大戦での敗戦による経済基盤の破壊から復興し、新たな経済成長の軌道に乗ろうとしていた時期、そして、企業はもとより政府、地方自治体、政治家、マスコミ、国民の多くが、重化学工業を中心とする経済的発展こそが何よりも重要であると考えていた時期に発生した、我が国はもちろん、世界的に見ても、人類が経験した最も深刻な公害の一つである。生産性のみを優先し、環境への配慮に欠けた企業活動が多くの人命を奪い、また、多くの人々の心と体を傷つけ、さらには、地域の自然環境、経済活動、人間関係にも回復しがたい深刻な被害を与えた。
しかし、不知火海沿岸でこのような重大な悲劇が発生したにもかかわらず、被害の拡大をくい止める政府の有効な対策がとられないまま、昭和40(1965)年5月には、新潟県阿賀野川流域で第二の水俣病が発生するに至った。
熊本水俣病の原因となったチッソのアセトアルデヒド製造工程からの廃水が製造設備の稼働停止により完全に止まったのは、行政機関に水俣病の発生が最初に報告された昭和31(1956)年5月から12年の年月を経た昭和43(1968)年5月であった。なお、新潟水俣病の原因となった昭和電工のアセトアルデヒド製造工程の稼働が停止されたのは、昭和40(1965)年1月であった。
水俣病は、新日本窒素肥料株式会社(昭和25(1950)年1月までの社名は「日本窒素肥料株式会社」、昭和40(1965)年1月までは「新日本窒素肥料株式会社」、現在は「チッソ株式会社」。以下本報告では「チッソ」で統一)水俣工場及び昭和電工株式会社(以下「昭和電工」という。)鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生したメチル水銀化合物が工場排水とともに排出され、これが水俣湾・不知火海及び阿賀野川を汚染し、そこに生息する魚介類の体内に蓄積され、これを継続して多量に摂取した地域住民に発生した疾患である。
熊本県水俣湾周辺と新潟県阿賀野川流域で発生した水俣病の原因に関しては、昭和43(1968)年9月26日、政府の統一見解が発表された。すなわち、熊本水俣病については、「チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程中で副生されたメチル水銀化合物が原因物質である」と断定し、新潟水俣病については、「昭和電工株式会社鹿瀬工場の同様の工程で副生されたメチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤となっている」とした。そして、水俣病はこれらの工場から排出されたメチル水銀化合物が魚介類に蓄積し、その魚介類を継続して多食した住民に生じた中枢神経系の疾患であると結論づけられた。
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2.水俣病の発生メカニズムと病態
水俣病の原因物質であるメチル水銀化合物は、アセチレン水付加反応によるアセトアルデヒド製造工程において、①アセトアルデヒド生成の副反応、すなわち触媒劣化反応のひとつとして反応器内で生ずるほか、②生成されたアセトアルデヒドと無機水銀イオンの反応によっても生ずる。②の反応はアセチレン水付加反応器内のみならず、アセトアルデヒドと無機水銀が接触する可能性のある他の機器内でも起こりうる。関係する反応全体を図示すると次のようになる。
実際の反応器内でのメチル水銀化合物の生成メカニズムについては、アセチレンと水銀が反応して生ずる中間生成物〔P〕が分解する過程でアセトアルデヒドが生成される一方、この分解過程の副反応としてメチル水銀化合物が生ずる(R1)という説がある。
さらに、これまでの諸家の実験結果について反応速度論的解析を行った西村肇東京大学名誉教授(化学工学)らの最近の研究では、実際のアセトアルデヒド製造工程での反応としてはR2の経路によるメチル水銀化合物生成が重要であり、R1の寄与は相対的に小さいことが指摘されている。
チッソ水俣工場と同様の工程を持つアセトアルデヒド工場では、このようにメチル水銀化合物が生成していた可能性があるが、水俣で多数の患者が発生した理由として、①チッソ水俣工場ではアセトアルデヒドの生産量が多い上に、②単位生産量当たりのメチル水銀化合物副生量が異常に多く、かつ、③チッソ水俣工場の場合、用水中に多量の塩素イオンが含まれていたため、生じたメチル水銀化合物が揮発性の塩化メチル水銀となり、これが母液中のアセトアルデヒドの蒸発・蒸留の過程で精溜塔へ移行し、精ドレン排水とともに排出されたと考えられること、④水俣湾が不知火海の内海のため排出されたメチル水銀化合物が十分に拡散せず魚介類に高濃度に蓄積されたこと、さらに⑤そこにこの魚介類を多食する漁民が存在したことがあげられる。
新潟水俣病の場合には、昭和電工鹿瀬工場の排水が流された阿賀野川周辺に川魚を多食する住民がいたことのほかに、アセトアルデヒド工程の稼働停止に伴う大量の廃液投棄の可能性も指摘されている。
[注釈]西村肇らの最近の研究(「現代化学」1998年2月号)によると、チッソ水俣工場においてメチル水銀化合物が生成する割合が高かったと考えられる理由としては、昭和26(1951)年8月以降水銀触媒の活性維持に用いる助触媒をそれまで使用していた二酸化マンガンから硫化第二鉄に変え、反応母液中で還元された第一鉄イオンを硝酸で酸化する方式に切り替えたことによって、プロセス中に生成されるメチル水銀量が急増し、さらに、海水が混入した工場用水を用いたために塩化メチル水銀の形で蒸発器から精溜塔へ移行して排出される結果を招いた。また、昭和26(1951)年から3年にわたり助触媒として硫酸工場の廃棄物である硫化鉄鉱石の焼き滓を用いたために頻繁にトラブルを起こし、メチル水銀化合物を含む反応母液を廃棄したことをあげている。
メチル水銀化合物によって汚染された魚介類を経口摂取することによって、メチル水銀化合物は消化管からほぼ完全に吸収され、血行を介して全身の臓器に分布する。一部は血液脳関門を通過して中枢神経に蓄積され、神経細胞を傷害して神経・精神症状を惹起する。メチル水銀化合物の特徴は他の水銀化合物に比較して血液脳関門を容易に通過することである。また、一部は毛髪に移行する。
臨床症状はしびれ感、四肢の関節・筋肉痛、言葉が出にくい、指先が利かない、物をうまくつかめない、つまずきやすい、ふらつく、味や臭いがわからない、聞こえにくい、からすまがり(こむら返り)、頭痛、物忘れ、不眠など多様で頑固な自覚症状をもつ。典型的な症例の主な神経症状は四肢末梢優位の感覚障害(手袋靴下状と表現する場合もある)、小脳性運動失調、構音障害、求心性視野狭窄、中枢性聴力障害、さらに、中枢性眼球運動障害、中枢性平衡障害、振戦などである。このうち、感覚障害、運動失調、視野狭窄、聴力障害はメチル水銀中毒の症例を初めて詳細に報告したイギリスの医師たちの名を取ってハンター・ラッセル症候群と呼び、メチル水銀中毒の典型的症状とされている。
重症者では不穏、狂躁状態、意識障害あるいは失外套症候群と言われる状態を示し、死に至ることもある。初期の水俣病では発病後3ヶ月以内に16例、6ヶ月以内に4例、1年以内に1例が死亡している。死亡率は昭和40(1965)年の時点で後に述べる胎児性患者を除き44.8%であった(熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病−有機水銀中毒に関する研究−」1966年)。
[注釈]少なくとも昭和43(1968)年までに認知されていた水俣病は胎児性も含めて重症者ばかりであった。環境汚染を介し、魚介類を通じて起こったメチル水銀中毒であるからこれら重症者以外に多数の様々な程度の患者が存在してもおかしくない。実際にその後、慢性に曝露を受けて発症した患者、不全型・軽症水俣病と呼ばれる多数の患者が確認され、胎児性水俣病の軽症例として臍帯水銀値が高く知的障害が主たる症状の患者も確認されている。
病理学的特徴は大脳と小脳の皮質傷害にある。すなわち、大脳では鳥距野(視中枢)、中心前回(運動中枢)、中心後回(感覚中枢)、横側頭回(聴中枢)において選択的に細胞脱落が見られる。小脳皮質においてはプルキンエ細胞が残存して顆粒細胞が著明に脱落する中心性顆粒細胞型萎縮像を示す。その程度は重症では海綿状態を示し、軽症例では軽度の神経細胞の脱落とグリア細胞の増殖を示すなど、種々の程度の病変が確認されている。大脳核、脳幹、脊髄の病変は重症例でも軽いのが特徴である。末梢神経障害として腓腹神経、脊髄後根など感覚線維優位の傷害が報告されている。
[注釈]末梢神経について、生検等において感覚線維優位の傷害がないとする報告もある。
メチル水銀化合物は血液脳関門と同様に血液胎盤関門を通過する。したがって、メチル水銀化合物を蓄積した魚介類を食した母親から胎盤を介して胎児の脳に広範な障害を起こすことも明らかになっている。その結果、生まれながらにして(先天性)知能障害、発育障害、言語障害や四肢運動障害・歩行障害、眼球運動障害、その他発作性症状、姿態変形など脳性麻痺様の症状が見られる。主として胎児期(妊娠後期)に障害を受けたと考えられることから胎児性水俣病と呼ばれている。
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昭和15(1940)年、イギリスのハンター、ボンフォード及びラッセルの3名は、種子殺菌剤製造工場でメチル水銀化合物の製造に従事していた労働者の中毒事故について報告した。 この工場では16名の労働者がメチル水銀化合物に曝露されたが(なお、この時のメチル水銀化合物の侵入経路は水俣病と異なり、呼吸器系を経由するものであった)、中毒症状を示したのは4名のみであって、他の12名は何らの症状も呈していなかった。また、発症した4名の症状から、メチル水銀中毒症の3症状は運動失調、言語障害、視野狭窄とされ、これがハンター・ラッセルの三徴候と呼ばれた。しかし現在では、水俣病解明の経緯から、これに感覚障害及び難聴を含めて(場合によっては言語障害を運動失調に含めて)、これが典型的な水俣病の症状を示すものとしていわゆるハンター・ラッセル症候群と呼ばれている。 |
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水俣病患者の症状を、当時の医師(注)の記録から詳しく見てみよう。 「田○し○子 満5歳11ヶ月。昭和31年3月下旬、一日だけ発熱したことがあった。その後ご飯を食べるときに箸が上手に使えず、こぼすのが気づかれた。また靴が上手にはけなかった。4月14日ごろからフラフラ歩きが目立つ。4月17日になると言葉がもつれ、物がのどにつかえるようになり、夜は不機嫌になって寝なくなり、しだいに狂躁状態を示すようになった。4月21日に付属病院で受診。受診時の所見は、体格中等、栄養不良、顔貌痴呆状で、つねに狂声を発す。瞳孔軽度に散大、舌乾燥、その他の内科的な異常を認めず、4月23日入院。四肢の運動障害が増強してくる。4月26日、上下肢の腱反射が亢進して、病的反射が認められ、不眠が続き、ときおり全身に強直性のが見られ、舌をかみ血が流れる。5月2日、全身強直性痙攣が頻発し、発汗著明、四肢筋硬直。5月28日には失明し、全身痙攣はしだいに頻発し、刺激に対する反応がまったくなくなり、手足を屈曲し、変形強い。」(昭和34年1月2日死亡) 「田○じ○子 満2歳11ヶ月。昭和31年4月23日、足許がフラフラし、歩くのが不自由になり、手の運動がまずくなる。同時に言葉が不明瞭になり、右膝、右手の指に痛みを訴える。5月7日、起立は可能であるが、歩行はまったく不能、握力も減弱、食物を口に入れて与えても咀嚼せず、軽度の嚥下困難、発語障害は増強し、聞きとれなくなり、首が坐らなくなる。5月8日、ぜんぜん食事をとらない。不眠。5月10日、まったく物をつかむこともできなくなる。5月14日、咀嚼嚥下障害は軽減したと思われるが、言葉はまったく出ない。」 「江○下○子 5歳4ヶ月。昭和31年4月28日ごろから歩くのがふらついて不自然となり、言葉がしだいに不明瞭になり、物が握れなくなった。5月8日初診。失調性の歩行。5月9日、水を飲ませるとこぼすことが多くなり、むせるようになる。5月10日には立てなくなり、16日にはなにも握れなくなる。17日には飲み込むのがまったく不能となり、四肢が硬直してくる。21日には肺炎を起こし、痙攣が頻発する。全身痙攣が強く、変形があって、意識が消失する。23日死亡。」 このように淡々と簡潔に書かれたものであるが、当時の医師によって書かれたこの記録は病気の恐ろしさを十分に物語っている。これが隣同士だったのに驚くが、この最後の例の家では、さらに11歳8ヶ月になる男の子が5月8日発病。その母親が5月16日発病。加えて、弟、8歳7ヶ月が6月14日発病する。 このとき、問題にならなかった父親と他の兄弟にも、当時からさまざまの自覚症状がみられており、その後昭和46年になって、私たちの調査で、知覚障害、視野狭窄、共同運動障害が認められ、一家全員、メチル水銀化合物の影響を受けていることが明らかになった。同じものを食べたのだから当然といえば当然だが、これが環境汚染による中毒のこわさである。 (原田正純「水俣病」岩波新書1972年より) (注)「当時の医師」とは、細川一・チッソ水俣工場附属病院長。 |
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3.水俣病の教訓
水俣病により失われた生命や、心と体の傷は、取り返しのつかないものである。
原因企業は、外部の原因究明活動に協力せず、社内研究の成果も隠すことにより、原因究明や対策を遅らせ、被害を拡大させた。
また、裁判や「公害健康被害の補償等に関する法律」に基づいて認定を受けた水俣病患者には、原因企業から補償金が支払われることとなった。その補償金支払いが累積し、チッソは、現在、経常利益を大幅に上回る患者補償の支払(補償金支払いのための借入金の利子負担を含む)を余儀なくされている。
コスト面からみても、実際に原因企業から認定患者に支払われた補償金額と比べても、もし水俣病を未然に防止できていたとした場合に要したであろう対策費用ははるかに少なくて済んでいたとの試算もある(地球環境経済研究会編「日本の公害経験」合同出版1991年)。このことは、結局は予防対策が企業経営にとっても利益になるものであることを示している。
水俣病を経験した我が国は、これを教訓として、このような悲惨な公害がこの地球上で繰り返されることのないよう、日本国内のみならず、世界の国々に対しても、積極的な貢献をしていくべきである。
そのためには、水俣病がなぜ起こり、なぜ拡大したのか、また、なぜ発見から政府による公式見解まで12年間もかかったのか。その時々における行政決断の遅れや研究者、地域住民、原因企業等の対応を検証し、水俣病の経験から教訓を明らかにしたい。
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水俣病の歴史は、科学的原因究明を厳密に要求するだけで、政府の責任のある決断が行われず、長い年月の間必要な対策が講じられなかった結果、住民に甚大な被害をもたらしてしまった悲劇の歴史といってよい。しかもその悲劇は二度も繰り返されており、このような水俣病の失敗をこれ以上繰り返すことは許されない。
現在人類が直面している化学物質の汚染問題においても、安全性をめぐる二つの立場がある。すなわち、現在のみならず将来に対しても安全性が確認されない化学物質は環境に排出してはならないという立場と、ある化学物質が有害と確認されるまでは排出しても構わないとする立場である。
公害の未然防止や拡大防止といった観点で考えれば、前者の安全性優先の原則には皆が賛成できるはずである。しかし、具体的な対策を講じる段階になると、「原因化学物質が特定されていない」とか、有害性が立証されていないものについては、「その化学物質の規制などを行えば産業活動への打撃が大きい」などの反対が相次ぐことによって、肝心な政策決定、社会的対応は必ずしも迅速に行われない場合が多い。
今日の化学物質による汚染や影響の拡がり、被害が確認された時点での深刻さを考えるとき、有害性やメカニズムの科学的な解明を待ってから対策を講ずるのでは手遅れにならざるを得ず、不確実さが残る中でいかに迅速に行政としての意思決定をすべきか、水俣病の失敗の経験から学ぶことは多い。
水俣病は、化学工場の製造工程で副生され、工場排水とともに自然界に排出された原因物質(メチル水銀化合物)が魚介類の体内に蓄積し、日常的に魚介類を多食することによってそれを摂取した結果生じた、化学物質による中毒の典型である。また、化学物質が母親の胎盤を経由して胎児に重篤な傷害を与えた事例としても化学物質問題において先駆的な意義を持つ事件である。
そこで、本研究会では、水俣病対策を講ずるに当たり最も重要な時期であった、水俣病の発生から昭和43(1968)年9月26日の政府統一見解発表に至るまでの原因究明過程を研究の対象とした。そして、その時代に、中央省庁、国会、県、県議会、市、市議会、原因企業、業界団体、研究機関、マスコミ、地域の被害者、住民、漁民等の各社会主体、あるいはそこに属した個人が、どのような時代認識と状況判断の下で、どのように行動し、それがどのような結果をもたらしたかを、主として熊本水俣病について社会科学的視点から考察することとした。そして、水俣病の原因究明過程から、現在の化学物質問題においても共通する迅速な対応を困難にしている社会的要因を抽出し、ここから得られる教訓を我が国はもとより、世界の国々に対して発信することを本報告書の目的とした。
なお、今回の研究対象とした昭和43(1968)年までの原因究明過程の時期だけでなく、それ以降の歴史の中からも、今後の環境問題、特に救済問題を考える上で有用となるであろう多くの貴重な教訓が導かれると考えられるので、これについても同様の研究を進める必要があることをここに付記しておきたい。
[注釈]本報告書は、国や県の法的責任の有無について結論を示すものではない。当時の国や県の対応の法的責任の有無・程度については、それぞれの立場によっても意見を異にするであろう。しかし、水俣病の被害の実態を目の当たりにして、いかなる立場であろうとも、当時の対応について、「それでよかった」という人はいないのではないかと考える。そこに、立場の違いにもかかわらず、水俣病事件の検証を行う共通の土俵がある。
結果がわかっている現在の目で当時の各主体の行動を批判することは容易であるが、読者の皆様には、本報告書を読み進めるに当たっては、是非、当時の状況に当事者として自分自身が置かれた場合を想定して、自分であればどう行動していたか、あるいはしていなかったかを想像し、自らが葛藤しながら本報告書を読み進めていただきたい。そして、特に最終章を読む際に、あわせて今の自分の置かれた立場を振り返って、自分は今同じ過ちを繰り返そうとしていないかどうかを問い直していただきたい。
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第1章 予兆の時代から昭和31(1956)年5月の水俣病公式発見までの動き
1.時代背景、チッソの産業政策上の位置付け、チッソが地域の経済社会に占めた位置、チッソの技術開発の特徴
第二次世界大戦が終了した昭和20(1945)年以降の日本における工業の復興は、比較的早く進められた。
昭和30(1955)年頃からは、石炭から石油へのエネルギー資源の転換を図る重化学工業化の政策的な推進により、年率10%前後の高度経済成長をとげる時代へと入った。第一次石油ショックが発生した昭和48(1973)年まで続く高度経済成長の時代に、国際経済競争力の強化という国家的目標のもと、日本は官民挙げて経済成長に邁進した。
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ア.チッソの水俣への立地
水俣は、九州の西側、対岸に天草諸島を臨む不知火海(八代海)に面し、熊本県の最南端で鹿児島県に隣接するところに位置する。市の中央を流れる水俣川河口の平地部は狭く、海に山が迫っているため、交通手段としては、かつては船による海上ルートが一般的であった。
チッソが進出する前の明治31(1898)年当時の水俣は、総戸数2,542戸の農漁村であった。産業で特徴的なものは製塩業であり、農家にとって唯一の現金収入源であったが、塩専売法の施行(明治43(1910)年)により廃止された。また、水俣の港からは木材などが搬出され、隣接する鹿児島県大口村の牛尾金山に石炭を運び込む窓口として賑わっていた。
[注釈]対岸の天草などから水俣沿岸に来て漁をする者も多かった。その一部が水俣に定着して漁民集落を形成した。
水俣湾は、不知火海へ張り出した明神岬とその沖合の恋路島に囲まれた二重の内湾で常に波穏やかである。湾の内外には潟や磯などの自然の魚礁があり、海岸沿いの松林の日陰には多様な魚介類が自然に集まって、絶好の産卵場ともなっており、水俣湾は不知火海のなかでも屈指の好漁場であった。
電気技術者であったチッソの創始者野口遵氏は、明治39(1906)年、まず曽木電気株式会社を興し、鹿児島県大口村の曽木ノ滝に水力発電所を建設して牛尾金山などに電力を供給したが、本来の目的はその余剰電力と引き続き建設された第二発電所の電力をもって、有機合成化学の原料であるアセチレンを発生させるカーバイドの製造を始めることであった。
カーバイド工場の建設に当たって、原料の石灰石や良質な無煙炭を豊富に産出する天草を対岸に臨み、それらの原料や製品の輸送に適した良港があり、さらに後背地には電力の開発に必要な水が豊富にある水俣は、地形的にも最適な地であった。地元の強力な誘致策もあり、翌明治40(1907)年3月、早速、野口は水俣村にカーバイド製造工場の建設を開始し、同年10月には曽木電気からの送電を開始した。翌明治41(1908)年8月、曽木電気とカーバイド製造会社を合併して、現在のチッソの前身である日本窒素肥料株式会社が設立された。
イ.チッソの発展、水俣地域における影響力の増大
チッソは変成硫安、合成硫安の製造で成功し、次々に九州各地に発電所を建設しながら、八代、延岡などに工場を建設して規模を拡大した。発電量は、明治41(1908)年の880kw/時から、水俣工場でカザレー式アンモニア合成を開始した昭和2(1927)年には約40,000kw/時に達した。
1930年代にはチッソは、森、日曹、理研と並んでわが国新興化学工業の代表として、三菱、住友、三井の旧財閥系に先立って日本の化学工業をリードした。これらの新興工業の特徴は、創始者が技術者か技術に理解があることと、財閥系が石炭を原料に用いたのに対して、自家製の安い水力発電の電力を原料生産に用いた電気化学を目指したことであった。
明治39(1906)年に曽木発電所ができたことにより、金山の動力源であった石炭を水俣港から運んでいた馬車引きは職を失った。製塩業も廃止された水俣において、現金収入の道はチッソ水俣工場への雇用に変わり、チッソの発展とともに水俣の地域経済のチッソ依存度が強まっていった。当時水俣工場では爆発などの労働災害が多発し、賃金も地元の日雇い労働者より低かったが、工場の発展に伴い賃金も上昇し、周辺地域からも多くの労働者が工場に集まり、水俣の人にとってチッソの工員になることは誇りに変わった。一般的に工場労働者の階層には大きな待遇の格差があったが、チッソ水俣工場でも戦後に至るまで、社員と地元採用の工員との間には雇用条件において厳然とした違いがあった。
明治22(1889)年4月、市町村制施行によって水俣村ができたときは、戸数2,400戸、人口12,040人であったが、大正元(1912)年12月の町制施行時には17,192人、大正4(1915)年には2,911戸、18,681人と、チッソ水俣工場の発展とともに人口は増加の一途を辿った。戦後水俣に市制が施行された昭和24(1949)年には、8,584戸、42,137人となり、水俣病が公式に発見された年でもある昭和31(1956)年には
この間、チッソ水俣工場が水俣の地域経済に占める比重もますます大きくなった。チッソの「水俣工場新聞」では、昭和30(1955)年頃にはチッソ水俣工場と労働者が納める固定資産税、市民税などの合計は市税収入の50%を超えると試算し、「チッソあっての水俣といわれる」、「チッソは正に
このように水俣は単一企業への依存度が高く、したがってその企業の影響力が強い都市、いわゆる「企業城下町」へと変貌した。そして、住民も水俣工場の発展こそが町の繁栄と考えるようになっていった。
こうした住民意識を背景に、水俣工場は積極的に自治体行政にも関与していく。大正15(1926)年には、元水俣工場社員の坂根次郎が町長になったのをはじめ、工場長やチッソ関係者7人が町議会議員になった。また同年国鉄水俣駅がチッソ前に開業した。戦後になると昭和25(1950)年には、アセトアルデヒド製造技術の開発者でもある橋本彦七元水俣工場長が市長となり、多数の水俣工場社員が市議会議員となった。そして、チッソ水俣工場の原料や製品の搬入搬出のための水俣港開港計画が立てられ、工場廃棄物で埋まった水俣港湾底の浚渫の公費負担や、水俣工場の固定資産税優遇措置、水俣川の水利権の独占使用など、多くの優遇措置がとられた。こうして百間港や市民が海水浴を楽しんだ海岸線もカーバイド残渣の捨て場に変わっていった。
図2 チッソの従業員数の推移 (
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カーバイドから発生させたアセチレンを原料に、水銀を触媒としてアセトアルデヒドを合成する原理は古くから知られており、ドイツ等では既に工業化されていたが、チッソは独自の製造法を開発し、昭和7(1932)年にいち早くアセトアルデヒドの製造を開始した。
このように、チッソの研究開発力は常にトップレベルで、戦前の日本化学工業の技術をリードしてきた。こうした技術力を持って、朝鮮に進出したチッソは、朝鮮や中国東北部に大規模な水力発電所を造り、朝鮮窒素肥料株式会社として、従業員45,000人を抱える巨大な興南工場を中心とする東洋一の電気化学コンビナートを造り上げ、肥料、油脂、火薬など、軍需産業としても重要な位置を占めた。
戦後の復興にあたって、政府は、肥料と石炭の増産に重点をおき、いわゆる傾斜生産方式をとってこれを推進した。チッソ水俣工場は、昭和20(1945)年の爆撃で大きな被害を受け一時生産を中止したが、戦後直ちに肥料部門の復旧に着手し、2ヶ月後の昭和20(1945)年10月から肥料生産を再開した。翌年には酢酸の生産も再開され、昭和25(1950)年頃には戦前の生産規模をほぼ回復した。チッソは興南工場など全ての海外資産が接収されたため、朝鮮窒素の多くの幹部・技術者が水俣に入り、水俣工場の指導層となった。
昭和20年代後半になると、肥料などの無機合成品による利潤が低下してきた反面、有機合成品による利潤が次第に大きくなっていった。
合成酢酸やプラスチックの可塑剤の原料であるアセトアルデヒドの生産量はその後急速に回復し、昭和30(1955)年には1万トン、昭和35(1960)年には戦後のピークである45,245トンに達した。このとき国内では表1に示した7社8工場がアセトアルデヒドを製造していたが、チッソは常に国内生産量の3分の1から4分の1を占めていた。
カーバイドを原料とするアセトアルデヒドや酢酸の生産は、戦後の高度成長期に石油化学工業への転換が図られるまで、有機合成化学工業の柱であった。チッソは国内生産のトップに立ち、市場を左右できる地位にあり、昭和20年代後半からの10年間に、チッソの有機合成部門では次々に技術の改良・刷新がなされ、設備も拡張された。なかでも、チッソは、昭和27(1952)年、輸入に頼っていたオクタノールをアセトアルデヒドから誘導・合成することに成功した。引き続き塩化ビニールの成型に不可欠な可塑剤DOPも製品化して、たちまち国内生産をほぼ独占し、昭和34(1959)年にはオクタノールの国内生産の85%を占めるに至った。
こうして、チッソは、他の企業がアセトアルデヒド製造工程の稼働率を下げた時期にも、オクタノールの需要を賄うために原料のアセトアルデヒドの増産を続け、石油化学工業への転換に備える資本を蓄積していった。
表1 アセチレン水付加反応法によるアセトアルデヒド製造工場
工場 |
所在地 |
稼働期間 (昭和) |
製造能力 (昭和38年) |
生産実績 (昭和35年) |
廃水放流先 |
チッソ 水俣工場 |
|
7年3月〜 43年5月 |
48,000 t |
45,245 t |
水俣湾 (一時水俣川口) →不知火海 |
大日本セルロイド 新井工場 |
|
12年3月〜 43年3月 |
24,000
|
22,142 |
渋江川、関川 →日本海 |
日本合成化学 熊本工場 |
|
19年1月〜 40年4月 |
18,000 |
15,969 |
浜戸川 →有明海 |
日本合成化学 大垣工場 |
|
3年2月〜 39年9月 |
水門川、揖斐川 →伊勢湾 |
||
昭和電工 鹿瀬工場 |
新潟県東浦原郡 |
11年1月〜 40年1月 |
12,000 |
11,800 |
阿賀野川 →日本海 |
電気化学 青海工場 |
|
20年4月〜 43年5月 |
12,000 |
10,890 |
青海川 →日本海 |
三菱瓦斯化学 松浜工場 |
|
35年7月〜 39年1月 |
10,000 |
4,244 |
新井郷川 →日本海 |
鉄興社 酒田工場 |
|
14年4月〜 39年12月 |
3,600 |
2,826 |
酒田港 →日本海 |
(有馬澄雄編「水俣病、20年の経験と今日の課題」より作成)
オクタノール生産量をチッソの資料に基づいて比較してみると、昭和30(1955)年チッソ3,233トン、他社1,781トン、昭和33(1958)年チッソ7,758トン、他社1,647トン、昭和34(1959)年チッソ13,147トン、他社1,378トンと、他社の生産量は減っているのに、チッソの生産量は急増している。
日本の化学工業界とそれらを指導する通商産業省(以下「通産省」という。)の最大の課題は、化学製品の貿易自由化に備え国際競争力を強化するため、従来の電気化学方式から石油化学方式にいかに早く転換することができるかということであった。通産省は、昭和30(1955)年「石油化学工業育成対策」を作成し、第1期石油化計画、ついで第2期石油化計画を進めていった。日本の経済自立と国際競争力強化を目指した通産省の方針に、全企業が乗り遅れまいと参加していった。
チッソも、第2期石油化計画に乗り遅れないように、提携する石油企業と立地先を物色し、昭和34(1959)年10月、丸善石油と提携して、千葉県五井に立地することに決めた。通産省は、この千葉コンビナートを合理的設備投資による効率的コンビナートと位置づけていた。
各社の石油化計画が出揃った昭和34(1959)年12月末、通産省は、「今後の石油化学工業企業化計画の処理方針」を発表し、化学工業を石油化するとともに旧来の設備を廃棄する方針(スクラップ・アンド・ビルド方式)を打ち出した。チッソを始め当時アセトアルデヒドを生産していた7社8工場は、早晩、製造設備を廃棄することになった。そのような見通しがあったにもかかわらず、昭和34(1959)年11月にチッソ水俣工場ではアセトアルデヒド7期設備の新設を完成し、稼働した。
表2 水俣工場のアセトアルデヒド生産実績と設備の稼働状況
(有馬澄雄編「水俣病、20年の研究と今日の課題」より抜粋)
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創始者に東京帝大電気工学科出身の技術者を持つチッソは、水俣病が発見された昭和30年代において、日本の化学工業の最先端を行く企業として、また技術者を大切にする企業として応用化学を専攻する学生の間では評価が高く、トップクラスの学生しか入れないという状況であった。
確かに、その歴史は、常に新しい技術を自社で開発してきたことを示している。昭和7(1932)年、橋本彦七氏らは、アセトアルデヒド製造技術(母液循環法)を独自に開発し、ここからブタノール、酢酸、酢酸エチル、無水酢酸、酢酸繊維素、酢酸ビニールなどの製品化に成功した。昭和16(1941)年には、日本で初めてアセチレンから塩化ビニールの合成に成功している。
水俣工場は、アセチレン有機合成化学の開発工場であり、戦前の日本化学工業界の技術をリードする存在であった。チッソは、水俣工場で開発されたこれらの技術を使って、朝鮮咸鏡南道に建設した興南工場を中心にして、東洋一の電気化学コンビナートを造り上げた。
水俣工場などの有機化学工場は、装置が爆発などを起こしやすい危険な職場であり、また、原材料には有害な化学物質が多く、工場からの廃棄物にも多様な危険物が含まれて、労働衛生面でも特に配慮が必要であった。しかし、当時のチッソでは、工場内労働者の安全への配慮は、企業利益の追求の後回しにされてきた。なお、当時の労働安全衛生規則には有機水銀に関する規制はなかった。
ところで、昭和5(1930)年にスイスの労働衛生学者ツァンガーは、アセトアルデヒド製造工程に従事する労働者の有機水銀中毒が疑われる症例を報告していた。また、昭和12(1937)年には、ドイツの労働衛生学者ケルシュがツァンガーの論文を引用して、アセトアルデヒド工程での触媒水銀から軽い揮発性のメチル水銀化合物が副生されるので、注意が必要である旨記載している。海外ではこのように、アセトアルデヒドの生成とともに有機水銀が副生する可能性があり、無機水銀中毒とは違う新たな中毒が起こったという報告は出ていたが、水俣病の原因究明過程で活かされることはなかった。また、我が国の技術者にも、中間体として一時的に有機水銀が副生することは知られていたが、これは毒性の強い低級アルキル水銀ではなく、またすぐに無くなるものと思われていたため、このことも化学者から医師や労働衛生担当者に伝えられることがなかった。チッソは、技術革新に関する情報の収集には力を注いでいたが、労働衛生面の情報は収集していなかった。
[注釈]ツァンガーの論文は、昭和62(1987)年5月、熊本水俣病京都訴訟の原告によって証拠として提出された。この論文は昭和13(1938)年に東京大学医学部が入手していたほか、二、三の大学も入手していたが、水俣病との関わりで出てきたのはこのときが初めてであった。また、昭和22(1947)年5月10日のチッソの社内文書に、ニューランドらの『アセチレンの化学』(大正10(1921)年)の内容に触れた文書があり、「中間体として水銀の有機化合物である白色の沈澱を生ずることは明らかな事実であるが、いかなる化学的組成を有するものであるか決定されていないようである。文献によれば、この反応はtrimercury-aldehydeが生ずるものであると信じている(四宮重夫;アセトアルデヒド製造編)」という記述がある。
水俣工場からの工場排水に含まれるものは、肥料生産が主であった時代は炭酸カルシウムなどの無機物が主であったが、アセトアルデヒド・酢酸の合成が始まると、多種多量の化学物質が含まれるようになった。その中には水俣病の原因となったメチル水銀化合物だけでなく、重金属など多様な有害物質が含まれ、危険性は格段に高くなっていた。しかし、水俣工場側には排水による工場外の汚染の危険性に対する認識はなく、環境汚染の防止を目的とする排水処理施設は設置されていなかった。
水俣の工場周辺では粉塵や有毒ガス排出でも早くから紛争が起きていた。昭和19(1944)年には丸島排水路へ流された排水で下手の農作物が枯死し、工場裏山の農作物は工場の煤塵で枯死した。そして、昭和30(1955)年には降下煤塵の被害について、丸島地区住民から市議会へ防塵対策の請願がなされた事実がある。
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チッソ水俣工場の歴史は、工場排水による海洋の汚染とそれによる漁業被害の歴史であり、また被害漁民との紛争の歴史でもあった。
海の汚染をめぐる漁民と水俣工場との紛争は、既に大正時代から始まっていた。大正15(1926)年には、工場排水貯蔵残滓や埋め立てで漁獲被害を受けたとして、それまで数年来チッソに補償を申し入れてきた水俣漁協は、困窮のため、補償要求を取り下げ、代わりに永久に苦情を申し出ないという条件で、チッソから見舞金1,500円を受け取っている。
昭和7(1932)年、チッソがアセトアルデヒドの製造を始めると、排水による汚染は激しさを増した。水俣漁協はたびたび工場側と補償交渉をもったが、赤字に苦しんでいた漁協は、昭和18(1943)年の漁業補償交渉では、漁業権を一部放棄して埋立を認めて、15万円の補償を受け、昭和26(1951)年にも、埋立との引き換えにチッソから50万円借りている。
昭和26(1951)年から昭和27(1952)年になると、チッソの排水口がある百間港付近の汚染はますますひどくなった。原因が毒物によるものなのか強酸性の廃液によるものなのか不明であるが、魚が死んで腐臭が漂ったり漁獲が減ってきたので、
三好係長が現地調査した報告書(復命書)では、チッソ水俣工場が百間港に排出している一般排水と百間港内に堆積した残渣によって漁獲が減少してきたと結論づけ、「排水に対して必要によっては分析し成分を明確にしておくことが望ましい」と指摘した。また、この三好係長の報告書にはチッソの「工場排水処理状況」も添付されており、そこには酢酸工程の原材料として「水銀」と明記されていた。しかし、その後、県によって排水が調べられることもなく、この報告書は、その後の原因究明や対策に活かされることなく埋もれてしまった。
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昭和28(1953)年頃から水俣湾周辺の漁村部落では、ネコが走り回って死んだり(地元では「ネコ踊り病」とか「ネコのてんかん」などと呼ぶようになる)、カラスや海辺に生息する鳥たちが突然落ちるなどの特異な現象が見かけられるようになった。漁獲高はその後も年々減少し、被害は水俣湾外へも広がっていった。
昭和29(1954)年、水俣湾周辺の漁村(茂道)では、6月くらいから100匹あまりいたネコがほとんど全て狂い死にし、他の地区から貰ってきたネコも同様に死んでしまった。そのためネズミが急増し、漁網などが食い荒らされる被害が増加して、困った漁民が市の衛生課にネズミの駆除を申し込んだ。このことは、8月1日に「ネコてんかんで全滅、ねずみの激増に悲鳴」と熊本日日新聞が報道した。
後から振り返れば、これがメチル水銀化合物による生物の異変を初めて報道したものであったが、そのときの対応は市がネズミ駆除剤を配ることだけにとどまり、ネコが狂死した原因追究の行動には至らなかった。
異常事態はついに住民にも及び、既に昭和28(1953)年の暮れには特異な神経精神症状を呈する患者が出ていた。昭和29(1954)年には、チッソ水俣工場附属病院や地元の開業医のところにも、診断困難な中枢神経系疾患の患者が受診するようになった。
昭和30(1955)年になると、二人の若者が手足のしびれを訴えて、地元の診療所に通ったが、ここでは診断がつかなかった。彼らは熊本大学付属病院に検査のため入院したが、このときは「原因不明の多発神経炎」と診断された。
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戦前において、公害が地域住民に被害を及ぼし大きな社会問題となった事件としては、足尾銅山鉱毒事件が特筆される。明治18(1885)年頃から、栃木県足尾銅山の廃水が渡良瀬川に流出して農林漁業に被害を与え、さらに大気汚染による被害も加わって住民の大規模な抗議運動になった。
大正、昭和の長年にわたる鉱害被害者の闘争の結果、石炭鉱害を中心として補償慣行が確立されてきたが、昭和16(1941)年に戦争遂行のための石炭増産を目的として鉱業法が改正され、無過失賠償責任制度が導入された。
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戦後の公害行政は、昭和24(1949)年の東京都の「工場公害防止条例」の制定をもって始まった。以後、複数の自治体が、公害防止条例を制定している。我が国においては、国がまだ対策を講ずるに至らない時期に、住民の苦情が多発し、自治体が必要に迫られて、自治体による立法である条例を制定するという自治体主導の公害行政発展の経過をたどった。
一方、国政レベルにおいては、わずかに昭和26(1951)年に、主として水資源の保全という見地から、経済安定本部に置かれた資源調査会が政府に対して水質汚濁防止法の制定や国立水質科学研究所の設置を勧告する動きが見られたが、これが直ちに活かされることはなかった。
[注釈]当時、厚生省、農林省は、この勧告を受けて、行政内部において要綱を作成する努力を行ったもようであるが、当時の状況では法案の作成には至らなかった。そこで、農林省は、水質汚濁に対する施策の必要を考えたとされる「水産資源保護法」を制定したが、結局のところ、それは水産業の保護を目的とするものとしてしか機能しえなかった。
昭和29(1954)年に「(旧)清掃法」が制定され、翌年の昭和30(1955)年には、厚生省が生活環境汚染防止基準法案要綱を作成して公表し、関係各方面との折衝を行った。しかし、関係各省をはじめ産業界や世論には、時期尚早ということで反対意見が強かった。このため、厚生省はこれをさらに手直ししたものを昭和32(1957)年に提示した。しかし、通商産業省も独自の立場から法案を提出したため、調整が行われたが、政府内の合意が得られず、結局この法案は国会に提出されなかった。
水俣病が発生した時期は、日本においては「公害」の概念や、四日市公害の問題でマスコミに登場したいわゆる「公害病」(公害に起因し、もしくは影響を受けていると考えられる疾病)についての認識が、一般にはまだ定着しておらず、企業も生産効率に関係が無いとみられていた公害対策に資金と人員を投入しようとは考えていなかった時代であったといえよう。
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熊本水俣病の発生後の昭和33(1958)年になると、東京近郊に立地する本州製紙江戸川工場の工場排水による漁業被害をめぐって浦安漁協の漁民約700名が工場に乱入し、工場側と乱闘するという事件がおき、東京都は一時操業を止めさせた。
この事件が契機となって、「(旧)公共用水域の水質の保全に関する法律」と「(旧)工場排水等の規制に関する法律」(いわゆる旧水質二法)が制定された。これは、初めて工場等からの公共用水域への排水の規制をうたったという意味では画期的なものであったが、前者の法律の目的には「公共用水域の水質の保全を図り、あわせて水質の汚濁に関する紛争の解決に資するため、これに必要な基本的事項を定め、もって産業の相互協和と公衆衛生の向上に寄与する」という「産業との調和論」が明記されていた。
これらの法律では、水質汚濁問題の発生した地域、又はそのおそれのある水域を「指定水域」として指定し、水質基準とその水域への排水の許容限度を定め、工場等を規制するというシステムをとっていた。その指定に当たって行われる水質調査は、一般的には問題が生じてから約2年半から3年、水俣湾の汚染のように汚濁原因や排水の許容限度を確定できなかった場合には、さらに長い期間を要した。しかもスタッフ等の制約から調査を行うことのできる水域の数にも限界があり、水質汚濁が全国的に急テンポで拡大・進行する状況の下では対応しきれなかった。また、許容限度は、それを決める審議会に産業界や水産業界等の利害関係者と関係省庁の代表者は参加するが、直接の被害者は参加せず、利害・情報・権限を持っている各省の合意がなければ決められないため、長い審議年月をかけてやっと一番緩い基準が決められるという限界を有するものであった。
[注釈]この限界が克服されたのは、昭和45(1970)年の第64回国会、いわゆる公害国会において、旧水質二法に代わる「水質汚濁防止法」により「指定水域」制をやめて全国の公共用水域を対象として、環境基準及び規制基準を適用することになってからであった。また、その際に法律と条例の関係も明文で整理され、地方公共団体は、条例により国の定める規制よりも厳しい規制を行うことができる旨が明記された。
通産省に産業公害課が置かれたのは昭和38(1963)年、厚生省に公害課が置かれたのは昭和39(1964)年のことで、それまで中央省庁には公害と名の付く部署はなかった。
昭和39(1964)年、閣議決定された三島・沼津のコンビナートの開発計画が反対運動によって中止されたことを契機として、昭和40(1965)年には国会の衆参両院に産業公害対策委員会ができたが、これが公害対策が政治のテーマとなった最初であった。
国として公害対策の総合的な推進を行うための法的枠組みである「(旧)公害対策基本法」が成立したのは昭和42(1967)年であった。それまでの法律はすべて経済との調和原則に立っていたが、「健康がすべてに優先するという原則」が初めて国会修正によって明記された。また、「生活環境の保全」については「経済の健全な発展との調和が図られるようにする」こととされた。旧水質二法もこれにならって改正が行われた。公害対策に政府全体で取り組むということも、公害対策基本法で初めて打ち出された。
そして、さらに、昭和45(1970)年の公害国会においては、公害対策への姿勢が経済優先ではないかという疑念を払拭するため、生活環境の保全についての経済の健全な発展との調和条項は、当然のことであり、書くことによってかえって調和を特段に強調することになるとして公害対策基本法をはじめとする公害関係法から削除されるに至った。
「猫てんかんで全滅、
(熊本日日新聞、昭和29年8月1日朝刊)
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公害という言葉が、行政の法律用語として初めて登場したのは、明治29(1896)年の(旧)河川法であった。このときは「公益を害する」という意味であった。田中正造もその意味で、足尾鉱山による被害を公害と言っていた。戦後、大気汚染や騒音などについても、公害という言葉が使われるようになった。この公害の概念は、かなりの数の国民の健康や財産に危害を加えたり、公衆の共通の権利を妨害する行為のことである。 現在、環境基本法では、「公害」を「環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下及び悪臭によって、人の健康又は生活環境(人の生活に密接な関係のある財産並びに人の生活に密接な関係のある動植物及びその生育環境を含む。)に係る被害が生ずること」と定義している。 |
表3 魚介類、鳥、ネコなどの異常状態
年度 |
魚 類 |
貝 類 |
海 草 |
鳥 類 |
猫・豚など |
昭 和 24 | 25 年 |
「まてがた」でカルワ、タコ、スズキが浮き出し手で拾えるようになった。 |
百間港の工場廃水口付近に舟をつなぐと「カキ」付着せず。 |
水俣湾内の海草が白味をおびだし、次第に海面に浮き出すようになった。 |
|
|
昭 和 26 | 27 年 |
特に水俣湾内でクロダイ、グチ、タイ、スズキ、ガラカブ、クサビなどが浮上する。 |
水俣湾内でアサリ、カキ、カラス貝、マキ貝(ビナ)などの空殻が目立って増加。 |
水俣湾内のアオサ、テングサ、アオノリ、ワカメなど色あせてきだし根切れで漂流し出す海草は以前の約1/3に減少。 |
湯堂、出月、月浦などでカラスが落下したり、アメドリを水竿でたたき捕獲できるようになる。 |
|
昭 和 28 | 29 年 |
魚の浮上は水俣湾内より南の「つぼ壇」「赤鼻」「新網代」「裸瀬」「湯堂湾」へと拡がる。 ボラ、タイ、タチ、イカ、グチなど。 また「湯堂湾」内でアジ子が狂い回るのがみられた。 |
水俣湾内より月浦海岸方面へ貝の死滅が拡がる。28年には地先一円に10数年ぶりに烏貝が育っても岸から1,000m以内のものは死滅。 |
海草漂流増加、被害著しい。 |
恋路島、出月、湯堂、茂道で落下などの異常状態を示すもの増える。 群がるカラスが方向を誤り海中に突入したり岩に激突するのを見受けるようになった。 |
猫:28年に出月で1匹狂死 29年には「まてがた」明神、月浦、出月湯堂などで狂死続出。 豚:出月、月浦で狂死 |
昭 和 30 | 32 年 |
魚の浮上は水俣川下流、大崎鼻、西湯ノ児方面へも拡大。 タイ、スズキ、チヌ、ボラなど。 |
死滅した貝類の腐敗臭で海岸は鼻をつくようになった。 |
食用海草は水俣湾一帯にかけ全滅。 |
数はさらに増加。 |
同地区で猫狂い病はさらに増加。 飼猫、のら猫とも狂死、また行方不明多数。 |
(水俣病研究会「水俣病にたいする企業の責任」より)
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−昭和31(1956)年5月の水俣病公式発見から昭和34(1959)年7月の熊本大学医学部研究班の有機水銀説発表までの動き−
昭和31(1956)年4月下旬、当時
伝染病を疑った担当の野田兼喜小児科医師は細川一病院長に相談した。実は細川病院長自身も前年に似たような患者を2例診察していたが、原因がわからないまま2〜3ヶ月で死亡していた。そこへ内科の三隅彦二医師も類似の症状を有する大人の患者を入院させたということを知った。
事態を重視した細川病院長は5月1日、野田医師とともに水俣保健所へ赴き、月浦地区に脳症状を呈する原因不明の疾病が発生し、これまでに4人の患者が入院した旨を報告した。これが後に「水俣病の公式発見」といわれる日である。
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報告を受けた伊藤蓮雄水俣保健所長は、早速現地に赴いてその患者の惨状に驚き、5月4日、熊本県衛生部長に「
原因不明の「奇病」に対する取り組みは、5月28日の保健所を中心とする医師会・市立病院・チッソ附属病院・市衛生課の五者からなる
昭和31(1956)年末の時点で確認された患者は54名にのぼり、その内17名が既に死亡していた。
地元の関係機関を統合して設置した奇病対策委員会が精力的に行った初期の疫学調査により、主要な臨床症状や発生時期、地域的な拡がりの概要が明らかにされた。この成果は、その後の熊本大学医学部研究班の研究の支えともなる貴重なものであった。特に、自らのカルテを見直して診断を改めた地元の開業医の姿勢や、チッソ附属病院の細川病院長をはじめとする医師達による献身的な患者の訪問調査など、この時期の臨床疫学調査は高く評価される。
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(3)約半年で化学物質により汚染された魚介類の摂取による発症であることに原因を絞った熊本大学医学部研究班
ア.熊本大学医学部研究班の設置
昭和31(1956)年8月13日に、
イ.熊本大学医学部研究班第1回報告会
昭和31(1956)年11月3日には、熊本大学医学部研究班の第1回研究報告会が開かれた。臨床的に炎症を示す所見はなく、細菌学的及びウィルス学的検索も陰性だったことから、この時点で伝染性疾患としての疑いはほとんど消えた。喜田村正次教授(公衆衛生学)は、患者の症状から重金属(特にマンガン)中毒を疑った。また、人への侵入経路について、入鹿山且朗教授(衛生学)は、患者に漁師が多いことから魚介類を疑い、その汚染原因としてチッソ水俣工場の排水に着目した。
この第1回研究報告会の発表で、魚介類の多量摂取が原因であることが示唆されたため、住民の魚介類摂取は減少した。そして、昭和33(1958)年8月まで、新たな患者発生の報告はなかった。
喜田村教授は、患者発生地区付近の海水汚染の原因となる可能性をもつものとして、月浦地区の屠場の廃液、湯堂地区の海中の湧水、茂道地区にあった旧海軍弾薬貯蔵庫の終戦に伴う爆薬処理なども考慮したが、弾薬の海中投棄の事実はなく、いずれもこの不明疾患の原因とは結びつかなかった。
熊本大学医学部研究班は、チッソ水俣工場技術部による昭和31(1956)年10月の水俣湾百間排水口の排水測定資料を入手した。そこには銅、鉛、ヒ素、マンガン等の分析値が示されていたが、水銀の記載はなかった。また、入鹿山教授も、同年10月と12月に百間の排水路で工場排水を下水試験法に従って分析したが、有害金属としてはマンガン、鉛等が検出されただけであった。
昭和32(1957)年1月25日、26日、国立公衆衛生院、熊本大学医学部研究班、水俣保健所長などが参加した厚生省厚生科学研究班の第1回研究報告会が国立公衆衛生院で開かれ、魚介類を媒介とする説が有力であるとされた。
同年3月30日、厚生科学研究班は、報告書「熊本県水俣地方に発生した奇病について」を厚生省に提出した。その報告書では、「現在最も疑われているものは疫学的調査成績で明らかにされた水俣湾港において漁獲された魚介類の摂取による中毒である。魚介類を汚染していると思われる中毒性物質が何であるかは、なお明らかではないが、これはおそらくある種の化学物質ないし金属類であろうと推測される。」とした。今後の調査研究方針として、疫学的、病理学的、毒物学的究明が最も重要であるとし、「チッソ水俣工場の十分な実態調査を行い、工場廃水及び廃鉱等の成分、それによる港湾の汚染状況をも明らかにすることにより、本病発生の原因を明らかにしたい。」とした。
同年7月の日本衛生学会では、厚生科学研究班の松田心一国立公衆衛生院疫学部長と喜田村教授らは、水俣奇病は水俣湾内魚介類の多量摂取で発病するもので、原因物質は工場排水中の化学物質が疑われると発表した。
チッソ水俣工場からは長年にわたり水俣湾へ未処理のままの廃水が放流され、排水口付近にはヘドロが何メートルも堆積していた。
熊本大学の研究者達は、チッソ工場側の協力が得られず工場に立ち入って試料を採取することができなかったため、海水や魚介類とともにこのヘドロの分析を精力的に行った。当初リストに上がった重金属化合物は64種にものぼった。
喜田村教授は、「水俣病−有機水銀中毒に関する研究−」(熊本で医学医学部水俣病研究班、1966年3月発行)の中で、高価な水銀を工場廃液中に多量に排出することはないであろうという理由などもあって、水銀は検索対象から外されていった、と記している。また、水銀は、試料の分析途中(湿性灰化法)の加熱で揮散してしまい、全く検出されなかったこともあり、検討対象にはのぼってこなかった。
これとは別に、世良完介教授(法医学)らは、昭和32(1957)年の熊本医学会雑誌(第31巻補冊第2)に、各種試料の測定結果表の中に水銀の定性測定結果を載せているが、そこでは水銀の値はマイナス(検出されず)となっており、コメントは何も書かれていない。
実際、採取したヘドロや魚介類からは10種類以上の有害物質が検出されたため、原因物質の見当を付けるために各教室は競い合いながら動物実験を繰り返していった。そして、原因物質究明のための地道な研究は、その後約二年間に及ぶことになる。
このように、水銀以外の物質を対象とした原因究明に長時間を費やしたものの、熊本大学医学部研究班が、水俣病は重金属による中毒であると考え、発生源としてチッソ水俣工場に的を絞ったことは正しかった。
しかし、一方で医学部研究班の結成時点で工学系の研究者が加わらなかったため、チッソ水俣工場内でどのような物質が使用され、生成し、廃棄されているのかについての十分な理解が得られなかった。そのために、当初水銀を全く分析対象にしなかったことや、後に水銀に着目してからも原因の工程についてアセトアルデヒドよりも主に塩化ビニール工程に狙いをつけるなど、製造工程から原因物質を絞っていくという発想はなかった。また、医学部研究班内部でも、情報の共有や研究を分担するといった視点は弱く、各教室は独自に研究を進めていった。
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(4)行政の初期対応
熊本県衛生部は、昭和31(1956)年8月3日には、既に厚生省公衆衛生局防疫課に水俣病の発生を報告していた。
厚生省は、11月に水俣病に関する厚生科学研究班を結成し、国立公衆衛生院の松田心一疫学部長らを現地に派遣し、
熊本県では、昭和32(1957)年1月には、担当部局を伝染病を担当する予防課から公衆衛生課に移管し、衛生部内に対策委員会を設置した。同年2月に入ると、
そこで、県は衛生部を中心に民生、土木、経済の各部を加えた水俣奇病対策連絡会を設置し、同年3月4日の第1回会合では、①県費による原因究明の促進、②入院患者の措置、③魚介類の摂食自粛指導、④漁獲自粛・漁場転換の指導、⑤浜松アサリ貝事件における静岡県の対策の調査、⑥チッソとの関係は現在のところ不明という立場で臨む、などの方針を決定した。
厚生省では、昭和32(1957)年3月30日の厚生科学研究班の報告書を受けて、同年4月10日、木村忠二郎厚生事務次官が関係各省の局長を招き、原因究明への協力を依頼した。
[注釈]浜名湖ではアサリ貝中毒によって、昭和17(1942)年に患者334人、死者114人、昭和24(1949)年には患者93人、死者7人という被害を出し、静岡県は直ちにその区域での貝類の採取・販売・移動を禁止した。
昭和25(1950)年にも、患者が12人発生し、原因は不明であったが、県は食品衛生法
の条文を示して、浜名湖内の該当区域での貝類(カキ、アサリ)の販売を禁止した。
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熊本大学医学部研究班では、昭和31(1956)年11月頃から原因と疑われた水俣湾の魚介類を大学に送ってもらい、ネコに食べさせて発症させようとしたが、定型的な発症はなかなか得られなかった。
[注釈]喜田村教授らの報告(熊本医学会誌31巻補冊第2・P.299 1957)によると、昭和31年(1956)11月19日より現地直送の魚介類を与える実験を3匹のネコで始め、この内の1匹が12月23日後肢麻痺を来して死亡し、病理所見は現地発症のネコの所見と極似していた。これが最も早い発症実験と考えられるが、他の2匹のネコでは発症が確認できなかった。
また、徳臣晴比古氏によれば「臨床的に炎症の否定と魚による発病から中毒が考えられたのは、研究着手後まもなくであった。その実証は水俣湾の魚をネコに与えて発病させることである。各教室とも一斉にこれに取りかかった。」(有馬澄雄編「水俣病−20年の研究と今日の課題−」青林舎、275頁、1979年)とされ、また、昭和31(1956)年11月17日、「市衛生課、熊大第1内科へ魚介類を送付−以後、熊大各教室へ魚介類・ネコなど検体として送りつづける」(同書年表)となっている。
ネコの発症実験を初めて成功させたのは武内教授の要請で実験を始めた伊藤保健所長であった。当時熊本大学医学部第二病理学教室の研究生だった伊藤所長は、武内教授の指示により、水俣保健所内の一室に7匹のネコを飼い、昭和32(1957)年3月から水俣湾内でとった魚介類を餌として与え、短いものでは1週間、長いものでも40日程度で自然発症の水俣病ネコと同じ症状を発症させることに成功した。伊藤所長は8ミリ映画にネコの運動障害を記録し、熊本大学医学部と共同して病理解剖、組織学的検索を行い、これが人の水俣病と同一のものであることを県衛生部に報告した。この実験は水俣湾産の魚介類が水俣病発症の原因であることを科学的に実証したものとして、その意義は極めて大きい。
一方、世良教授も、昭和32(1957)年2月から、健康なネコを
昭和32(1957)年2月8日の熊本県議会では、原因究明とともに、患者や漁民の救済に関する県の対応について質問が出されていたが、同年7月には伊藤保健所長や世良教授のネコ実験の結果も明らかにされ、早急に水俣湾産の魚介類を食べさせないように手を打つ必要性が生じていた。
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2.食品衛生法の適用に関する昭和32(1957)年9月の厚生省回答と、翌年6月の厚生省厚生科学研究班報告をめぐる動き
水俣湾の魚介類を食べることによって水俣病が発症する疑いが強くなってきたことから、熊本県では、水俣の魚介類の摂取を禁止することを検討していた。
そこで、昭和32(1957)年3月の水俣奇病対策連絡会の方針でもあった浜松アサリ貝事件における静岡県の対処を参考にできないものか、静岡県に照会をした。アサリ貝事件と水俣病とは原因物質が未確認であるという共通点はあったが、熊本水俣病の場合には危険な魚種や規制すべき漁場の範囲を決める情報を持っていなかったため、熊本県では、この例にならうことはできないとの判断に至った。
昭和32(1957)年7月になると、厚生科学研究班の伊藤保健所長、細川病院長、県衛生部蟻田重雄部長、守住憲明公衆衛生課長らは、疫学的、臨床的研究成績として、「疫学的、臨床的事項から本症は水俣湾港内の魚介類を摂食することによって起る一種の中毒症とされたが、…(中略)…同教室(熊本大学医学部第二病理学教室)では実験的に水俣湾港内の魚介類によってネコの実験発病にも成功したので、本症の原因が湾内魚介類にあることは判明した」と発表した。
県衛生部は、食品衛生法第4条第2号の規定に準じた状況であると判断し、捕獲や摂食を禁じる知事告示を出すという方針を決め、同年8月16日、厚生省に食品衛生法の適用の可否を照会した。
ところが、同年9月11日、厚生省公衆衛生局長から熊本県知事に届いた回答は、「水俣湾特定地域の魚介類を摂食することは、原因不明の中枢性神経疾患を発生させるおそれがあるので、今後とも水俣湾の魚介類が摂取されないよう指導すること。然し、水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、当該特定地域にて漁獲された魚介類のすべてに対し食品衛生法第4条第2号を適用することはできないものと考える」というものであった。
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昭和32(1957)年10月、厚生科学研究班は、それまでの研究で絞り込んできた原因物質として「セレン・マンガン・タリウムに注目している」と日本公衆衛生学会で報告した。
その後、熊本大学医学部研究班は、チッソ工場内の残滓や排水口の泥土からこれら3種の重金属が高濃度に検出されたことから、翌年2月には、今後の課題はチッソから排出された3物質の中間経路の解明と実験的再現であるとした。しかし、これらの3物質は神経毒性を持っているものの、単独では水俣病特有の症状を実験的に再現することはできなかった。
昭和33(1958)年6月24日、国会(参議院社会労働委員会)での森中守義議員の質問に対して尾村
昭和33(1958)年7月7日、厚生省は、厚生科学研究班の報告に基づき、水俣病の研究成果と対策について関係省庁・県市町村に通知した。これに対し、チッソは、マンガン、セレン、タリウムは排水中で有害な基準を下回っているので問題が無いと反論した。これらの物質は、有機水銀説が出されるとこれに取って代わられ、水俣病の原因物質から消えていくことになる。
昭和33(1958)年8月7日、 厚生省は、研究の集約・行政対策のため、厚生省を中心とし通産省、農林省、文部省、運輸省などの関係省庁からなる水俣奇病対策連絡協議会を設置した。同時に、熊本県に総合的研究のため関係省庁出先機関、熊本県、熊本大学、九州大学で構成される水俣奇病総合研究連絡協議会を設置することを決定したが、これは立ち消えとなり、翌昭和34(1959)年1月16日、厚生省食品衛生調査会の中に水俣食中毒特別部会を設置した。
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3.昭和33(1958)年9月のアセトアルデヒド製造工程排水路変更をめぐる動き
水俣湾内の汚染は継続し、昭和33(1958)年8月には約1年半ぶりに患者の発生が報告され、地元マスコミも一斉に報道した。熊本県経済部長は、熊本県漁業協同組合連合会(以下「県漁連」という。)・関係漁協に対し、組合関係者に水俣湾海域での操業を絶対に行わないよう指導することを通達した。これに対し、水俣漁協は、想定危険海域の操業禁止に伴う漁民への補償、水俣病発生原因の早期究明などを求める決議を行った。
アセトアルデヒドの増産に向かっていたチッソは、とりあえず百間港付近の汚染を止める方策として、排水を水俣川河口から流して、不知火海で希釈させようと考えた。これに対し定年後もチッソ附属病院に残ってネコ実験を続けていた細川一医師は、もし水俣川河口付近で患者が発生すれば、工場排水が原因であることを証明することにもなるので、やめるように進言した。
しかし、チッソは、昭和33(1958)年9月に、水俣湾の百間港に流していたアセトアルデヒド製造工程の排水を、一旦「プール」へ溜めて上澄みを水俣川河口に放流するように変更した。「八幡プール」はもともとカーバイド残渣の捨て場として海岸を埋め立てて造ったもので、排水処理施設ではなく、水に溶けた物質は「八幡プール」の底から浸透して海に出ていく構造になっていた。当時の工場長も、「八幡プール」では固形物は浄化できるが溶けているものはそのまま排出されることはわかっていたと、後の裁判で証言している。
図4 チッソ水俣工場の排水路(昭和33年9月と昭和34年10月)
(チッソ株式会社「水俣病問題の十五年−その実相を追って−」より転載)
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昭和34(1959)年3月になると、細川一医師の心配は現実のものとなった。水俣川河口付近の漁民から新たな患者の発生が報告され、その後も河口付近から患者発生の報告が相次いだ。また、北側の
排水路変更とそれによって生じた患者・被害の拡大は、原因物質が何であれ、アセトアルデヒド製造工程の排水が熊本水俣病の原因であることを強く示唆するものであった。
排水路の変更はチッソ外部の者には知らされなかったが、昭和34(1959)年6月、水俣川河口にアユが浮いたという情報を調べに行った県水産試験場技師が復命書で「新たに水俣川に排水を流している模様」と上司に報告した。また同年6月、厚生省に陳情に行った
徳臣助教授らは、昭和34(1959)年2月から10月にかけて新たに発生したた患者10例を報告し、そのうち9例までが、水俣川河口またはそれより北方の住民であったことから、汚染地域が北方に拡大したことを指摘し、このことと工場排水の水路変更(熊本県調査)との因果関係を示唆した。また、喜田村教授らもチッソから得た排水路の変遷表を載せ、アセトアルデヒド製造工程排水路の変更に患者発生地区が対応していることに注目した(ともに熊本医学会雑誌34巻補冊3号、1960年3月)が、この重要な疫学的事実は何ら具体的対応に結びつかなかった。
通産省がいつの時点でチッソの排水路変更を知ったかは明らかではないが、同年10月、通産省は、チッソに対し、直接不知火海に放出している排水路を廃止するとともに、排水処理施設の工事を急がせ、年内か翌年1月までには完成させるように口頭で指示した。同年11月には、文書をもって「排水路の一部廃止等種々対策を講ぜられているところであるが、…この際一刻も早く排水処理施設を完備するとともに、関係機関と十分に協力して可及的速やかに原因を究明する等現地の不安解消に十分努力せられたい」と通達した。
チッソは、同年11月からアセトアルデヒド製造工程排水の水俣川河口への放出を止め、元の百間港に戻すとともに、八幡プールの上澄み液を汲み上げて、工場内のアセチレン発生装置に送って再利用する方法を採った。
[注釈]後日チッソ社長や水俣工場長の熊本水俣病発生に対する刑事責任が問われた裁判において、この排水路変更によって新たな患者を発生させたことが判決で有罪とされる重要な判断材料となった。
[注釈]八幡プールの上澄み液を汲み上げるようにした後も、八幡プールからの水銀流出は続いた。その主な理由は、①逆送は不十分なものであった。②八幡プールの構造上、水銀排水は底から流出していった。③大雨によるオーバーフローは止められなかった、などによる。
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また、患者を抱える家庭の多くは、漁業を営み、新鮮な魚介類を毎食豊富に摂る自給生活をおくっていた。しかし、現金収入はそもそも乏しかったため、患者が出ることによりその生活はどん底状態に陥り、とても患者を入院させる費用など出せる状態ではなかった。そのため、細川病院長のように早い時期から既に伝染病とは考えにくいと思っていた医師もいたが、「疑似日本脳炎」として公費で入院費を負担することとして、
なお、漁家の患者の家族の中には、病人に少しでも良質の栄養を摂らせようと、自ら獲ってきた魚や高級なクルマエビ等を食べさせた者もいたが、このことがかえって症状を悪化させることになっていたとは気づかなかった。
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昭和31(1956)年5月の公式発見当時、水俣病は「伝染性の奇病」として報道され、患者たちは伝染病患者としての扱いを受けてきた。同年11月には水俣病の原因が、何らかの重金属に汚染された魚介類を多食するためではないかという疑いが濃くなり、翌年には県の担当が予防課から公衆衛生課に移り、行政的にも伝染病の疑いは消えた。その後、熊本大学医学部研究班、厚生科学研究班などの研究が進み、医師や研究者の間で伝染病を疑うものは全くいなくなっていた。
にもかかわらず、患者発生地域では依然として伝染病という誤解から、患者が差別を受けた。当初の誤解から生じた差別の観念はその後も引き継がれ、また、水俣病の名前が全国に知られるにつれて、水俣地域全体が風土病の汚染地区と誤解され、様々な悪影響を受けた。水俣病患者であるということだけで差別を受ける状況が続いた。
さらに、漁村においては、患者が出るとその村の魚が売れなくなり、患者家族のみならずその村落のすべての漁民が生活に困窮するようになるため、患者家族は村八分状態にされ、新たに発症した患者も簡単に名乗り出られるような状況ではなかった。家族が入院させようとしていた漁民の患者を、漁協の幹部が病院から連れ戻したり、典型的な水俣病の症状を示して自宅で床についたままになっているにもかかわらず、「名乗り出れば親子の縁を切る」と自分の子供に言われて名乗り出られないケースもあった。
水俣病の原因が工場排水に汚染された魚介類による中毒であることが早期に明らかになり、原因企業による患者や漁協への補償体制ができていれば、患者達が地域社会で発言を抑えられることも、後々地域内での厳しい差別が残ることもなかったかもしれない。
しかし、現実にはチッソは当初全く責任を認めていなかった。さらに、チッソは地域社会の中で経済的にも政治的にも強い影響力を持っており、多くの市民は何らかのチッソの「恩恵」にあずかっていたため、チッソに気兼ねして水俣病の原因について言い出せない状況もあった。
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水俣で生まれ育った私は、物心ついたときにはすでに海に行っていました。昭和26年、学校を卒業後、両親と三人で漁をするというごく平凡な、当たり前の生活をしていました。 昭和27年から28年にかけて海が汚れ、大きな魚も死んで浮いていたこともありました。その頃から私は、よく転ぶようになり、体調も悪くなってきたので、病院に通い始めました。検査をした結果、漁で灯りとして使っているアセチレンの中毒ではないかと診断されたので、漁を辞め、仕事を変えました。 昭和31年になると同じような症状の患者が一斉に出始め、病院では「奇病」、地域では「伝染病」として扱われました。私は、はっきり水俣病とわかるような状態ではなかったので隠していましたが、父母が相次いで発病し、父は入院後急速に症状が悪化し、まもなく激症の水俣病で亡くなりました。 昭和34年、有機水銀中毒説の発表を受けて、チッソへ排水停止を要求しましたが、実現しませんでした。当時の私たちは、肉体的、精神的、経済的にも苦しくなっていました。そして、仕方なく、この年の12月30日、少額の見舞金契約を交わしました。これによって水俣病は、医学的にも社会的にも忘れられ、地域においては伝染病だと認識されたままでした。この誤解は、今でも結婚を難しくさせています。水俣で生まれ育った人が出身を聞かれたとき、「私は水俣出身」だと言いにくい人もいます。堂々と胸を張って言えるように、私たちが示していきたいと思っています。
* 浜元二徳さんは、昭和10(1935)年生まれ。現在、多くの人に水俣病について理解してほしいという思いから、 |
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水俣病が発見された当時は、その原因がわからなかったため、地元では「奇病」と呼んでいた。そこで
熊本大学医学部研究班の中でも、いつまでも奇病と呼ぶことはあまりに非医学的であることから、勝木教授が「水俣病」と呼ぶことを提案し、これが最も適当であろうということで意見が一致した。
初めて学術誌の中で「水俣病」という用語を使ったのは武内教授の「水俣病(水俣地方に発生した原因不明の中枢神経系疾患)の病理学的研究(第二報)」(熊本医学会雑誌31巻補冊2、1957年6月)であった。そこでは「中毒性因子が確認されるまでは本症を水俣病と仮称することにしたい」と断った上で「水俣病」という病名を使用している。
新聞紙上では、昭和33(1958)年8月、約一年半ぶりの患者発生を報道した時から、ほぼ各新聞社一斉に「水俣病」と呼ぶようになった。
昭和34(1959)年には熊本大学医学部研究班の有機水銀説が公表されたが、水俣病の原因物質の公的な確認は、昭和43(1968)年の政府統一見解を待つことになる。その間に水俣病は海外の医学文献のみならず公害事件としても海外でも広く報道され、「Minamata Disease」という呼称が定着した。
[注釈](旧)公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法の施行のために実施された昭和45(1970)年3月の厚生省公害調査等委託研究「公害の影響による疾病の範囲等に関する研究」においては、既に国際的に定着しているという理由で「政令におり込む病名として水俣病を採用するのが適当」とされた。また、ここでは水俣病の定義として、「魚貝類に蓄積された有機水銀を経口摂取するすることにより起こる神経系疾患」とし、単に有機水銀を経気、経口、経皮的に摂取することにより起こる疾患ではなく、「魚貝類への蓄積、その摂取という過程において公害的要素を含んでいる」ものであるとしている。
全国的に名前が知れわたった水俣病も、その本態についての国民の理解は、依然として風土病、伝染病、遺伝病という誤ったものも多かった。
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「水俣病」は産業活動によって環境中に排出されたメチル水銀化合物が生物濃縮により魚介類に蓄積され、この汚染された魚介類を経口摂取することにより生じたメチル水銀中毒である。 原因物質の発生源、人体への侵入経路などの特殊性から、厚生省の公害調査等委託研究班も「魚貝類への蓄積、その摂取という過程において公害的要素を含んでいる」として、単なるメチル水銀中毒とは違う特別な意味を含めて用いてきた。メチル水銀化合物を用いる農薬工場内における職業病のように、直接曝露によるものや、イラクの有機水銀農薬で消毒された種子麦を食べて多くの死者を出したケースなどは、メチル水銀中毒症ではあるが「水俣病」とは言わない。 一方、金精錬において、金属水銀を砂金に混ぜてアマルガムを作り、この水銀を加熱して蒸発させる方法が今日においても広く世界中で用いられているが、水銀蒸気に作業者が曝露されてかかる急性無機水銀中毒が大きな問題となっている。このことは水俣病とは全く別の問題であるが、河川などに廃棄されたり、大気中に飛散した無機水銀が土壌や河川水を汚染し、そこでメチル化した水銀が魚介類に蓄積し、人の毛髪水銀値を上昇させている事実が、世界各地で確認されている。特に、アマゾン川流域では、毛髪水銀濃度(その90%近くがメチル水銀)が50ppmを超え、神経症状を訴える人が見つかっている。こうした神経症状がメチル水銀中毒によるものであることが確認されれば、環境中に直接メチル水銀化合物を排出した水俣病の条件とは異なるが、医学的にはそれと同様の症状を現す可能性がある。 |
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イギリスのある種子消毒剤工場において4名の作業員におこったメチル水銀中毒について、ハンター(D. Hunter)、ボンフォード(R. Bomford)及びラッセル(D. Russell)は昭和15(1940)年に詳細な臨床報告(Quart. J. Med. 第9巻)を行った。そのうちの1名(第4例)が発病15年後に死亡し剖検されたが、熊本大学医学部研究班が、水俣病の症候が有機水銀中毒と酷似していることに気付いたのは、その病理所見を詳細に記載したHunter及びRussellの論文(J.Neurol. Neurosurg. Psychiat. 第17巻、1954年)による。 武内教授は、昭和33(1958)年に発行されたヘンケ(F. Henke)とルバルシュ(O. Lubarsch)編の「病理解剖学全書」第13巻の2を入手し、その水銀中毒の項にペンチュウ(A. Pentschew)が掲載したHunterらのメチル水銀中毒患者の脳の病理所見が、水俣病患者のそれと極めて類似しているのを見出した。水俣病がメチル水銀中毒であることを確信した武内教授は、公衆衛生学教室に対し水俣湾産魚介類の水銀分析を依頼した。 また徳臣助教授は、昭和32(1957)年4月に入手したエッチンゲン(Von Oettingen)著「中毒」(1954年発行)に、求心性視野狭窄と運動失調を来す毒物として、その冒頭にアルキル水銀の記載があることに気づいた。そこに引用されていたHunterらの2文献を取り寄せて検討したが、当時は重症例が多く、症状が激しすぎて必ずしもHunterらの記載とは合致せず、また、高価な水銀が大量に廃棄されるはずがないと考えられたので、アルキル水銀説には至らなかった。しかし、その後34例にのぼる症例を経験し、中心となる症候はHunterらの報告と一致することが判り、本症が有機水銀中毒であることを確信するに至った。 学術誌に水俣病と有機水銀との関係を最初に記述したのは、英国の神経科医師マッカルパイン(McAlpine)博士と荒木淑郎医師(九州大学医学部内科)であった。マッカルパインは宮川九平太熊本大学教授(神経精神科)のもとへ多発性硬化症の調査のために来ていたが、昭和33(1958)年2月、荒木医師とともに水俣を訪れて水俣病患者を診察し、ランセット(Lancet)誌に水俣病を紹介した(発行は同年9月)。その際、日本での研究として宮川教授が当時提唱していたタリウム説などの紹介をしながら、その症状から考えられる原因物質として初めて有機水銀中毒の可能性を示唆している。 昭和33(1958)年9月、米国NIH(National Institutes of Health;国立衛生研究所)の疫学部長カーランド(Kurland)博士らが水俣病の原因究明のために水俣を訪れて患者を診察し、水俣湾の魚介類や泥土、海水などを分析のために持ち帰った。彼は、持ち帰った試料から大量の水銀を検出し、昭和34(1959)年の熊本大学医学部研究班の有機水銀説を強く支持した。海外の権威ある研究者からの支持は、当時様々な反論にさらされていた熊本大学医学部研究班を励ますことになった。さらに、その後、NIHは、研究資金の面でも熊本大学医学部の研究を支えることになった。 |
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−昭和34(1959)年7月の熊本大学医学部研究班の有機水銀説発表から見舞金契約を経て、昭和40(1965)年5月の新潟水俣病公式発表までの動き−
1.熊本大学医学部研究班の有機水銀説発表とこれに対するチッソの対応等
熊本大学医学部研究班が有機水銀に着目するには幾つかのきっかけがあったが、武内忠男教授、徳臣晴比古助教授らは、ハンター・ラッセルが報告した有機水銀中毒の臨床症状や病理学的所見との一致に注目して、昭和33(1958)年の秋以降、有機水銀に的を絞った研究を開始した。なお、当時国内でも低級アルキル水銀中毒については農薬の知見があったが、水俣病との関連で検討されることはなかった。
これまでいろいろな重金属が原因物質の候補に挙がってきたが、水銀は前処理の加熱により揮散してしまっていたために検出されず、有機水銀が疑われて初めて水銀が測られることになった。当時の総水銀の定量法としては、分析限界が0.1ppm程度の濃度測定が可能なジチゾン比色法がある程度確立されていたが、試料の前処理などの習得には時間がかかり、喜田村正次教授らが総水銀の分析法を身に付けるまでに約3ヶ月を要した。また、当時は有機水銀を正確に定量できる分析技術はなく、アルキル水銀を投与する動物実験で、水俣病の症状や病理像を再現させる努力が続けられた。
昭和33(1958)年7月には、厚生科学研究班としてセレン・タリウム・マンガン説を提唱していたため、有機水銀説は熊本大学医学部研究班内ではすぐには認められなかった。
しかし、昭和34(1959)年7月14日の熊本大学医学部研究班会議で、武内教授、徳臣助教授らが病理と臨床の立場から有機水銀説を報告し、喜田村教授も水俣湾底土の水銀汚染が百間排水口泥土の2,000ppm(湿重量)以上を最高に排水口から遠ざかるに従って低下するデータを示して、水銀はチッソから排出されたものであると報告した。
そこで、熊本大学医学部研究班として「水俣病は現地の魚貝類を摂食することによって惹起せられる神経系疾患であり、魚貝類を汚染している毒物としては、水銀が極めて注目されるに至った」と結論し、同年7月22日に「水俣病の原因物質は水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えるに至った」との研究班の確認事項を正式発表した。ただ、この時点ではどのような水銀化合物であるのかは今後の検討事項とされ、また、チッソの塩化ビニール工程で使用されている塩化第二水銀と原因物質との直接的な関連もつかんでいないとした。また、同研究班内では、宮川九平太教授が依然としてタリウム説を主張していた。
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昭和34(1959)年7月22日に有機水銀説が公表されると、当初から工場排水に疑いを持っていた患者や漁民は、水俣にはチッソ以外に水銀を排出するところは無いため、チッソが水俣病の発生源であることに確信を持ち、まず漁民がチッソに補償を迫った。
同年8月6日、鮮魚小売商
同年8月19日、新日本窒素労働組合(以下「新日窒労組」という。)の代議員会において、漁民問題に対する基本態度としては労働者と漁民とは同じ働く者としての基盤に立っているので、原則として漁民の闘争を支援するという提案が可決された。
ところが、その決着直後の昭和34(1959)年9月以降に、水俣川河口の漁民や北側の津奈木の漁民が発病し、さらに、南側の出水市や獅子島などでネコの発病が確認されるなど、不知火海が広く汚染されていることがわかって、不知火海沿岸漁民の排水停止の要求は、一段と強くなった。同年10月17日、県漁連が総決起大会を開き、政府に対しては、水質汚濁防止法の制定と不知火海の指定海域化、水俣病の原因究明を要求し、チッソに対しては、漁業補償、患者見舞金のほか、排水浄化装置完成までは操業を停止することを要求した。しかし、チッソが交渉を拒否したことから、1,500人の漁民が工場に押し掛け、投石騒動が起き、警官隊が出動した。
国会調査団の現地調査にあわせて漁民の動きが緊迫化した同年10月末、寺本廣作熊本県知事が、昭和31(1956)年に水俣病が公式に発見されて以来初めて水俣を訪れた。
昭和34(1959)年11月2日、松田鐵藏氏を団長とし、衆議院農林水産委員会、社会労働委員会、商工委員会の国会議員8人からなる国会調査団が初めて水俣の現地調査を行った。それに合わせて約2,000人の漁民が水俣に集結、調査団へ陳情した。漁民達は、その後総決起大会を開催して工場に団体交渉を申し入れたが、拒否されたため工場に押し入り、100人以上の負傷者を出す騒動に発展した。
漁民騒動を受けて、新日窒労組は、11月4日、緊急代議員会を開き、同月6日、熊本県に対して、工場の操業停止絶対反対と病気の原因の早期究明・患者対策・漁業対策を要望し、会社に対しては、排水浄化装置の早期完成、原因究明への協力、県漁連への謙虚な対応を要望し、さらに、県漁連に対して、暴力行為への反省を求める決議を全会一致で可決した。
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(3)
昭和34(1959)年11月2日の漁民騒動事件を受けて、同月5日、
同月7日には、早速、市長、市議会、商工会議所、農協、労組等の代表がこの決議文を持って知事に陳情した。
新日本窒素水俣工場生活協同組合であった水光社の家庭会は、昭和34(1959)年11月9日付で、県知事、県漁連会長宛に、暴力行為による解決は断固否定、工場は一日も早く廃水対策を確立し、工場廃水停止に対し県当局の寛大な配慮を強く希望する、という内容の請願書を提出した。
こうした動きには、財政的にも人的にも
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昭和34(1959)年10月21日、通産省は、チッソに対し、八幡プールを経て水俣川河口に変更していたアセトアルデヒド製造工程の排水を、直ちに元の百間港に戻すこと、排水浄化装置の設置を年内か翌年1月までには完成させることを指導した。
国会では、熊本県議会と県漁連からの陳情を受けて、同年10月22日の衆議院農林水産委員会で水俣病問題が取り上げられ、委員会として早急に現地調査を行うように計らいたいとした。
同年11月1日、衆議院農林水産・社会労働・商工の各委員会の8人からなる国会調査団が熊本を訪れ、県議会、熊本大学医学部研究班の意見を聴取した。翌2日、水俣の現地調査に訪れ、患者家庭互助会や県漁連からの要望を聴取し、水俣湾やチッソ工場視察などを行った。
通産省は、同年11月10日、チッソに対して一刻も早い排水処理施設の完備と関係機関に協力して原因究明に当たるよう指導するとともに、全国のアセトアルデヒドと塩化ビニール製造工場に対し排水調査(特に水銀含有量)を指示した。しかし、この調査は、「水俣病問題が政治問題化しつつある現状に鑑み、秘扱いにて行うこと」とされた。
翌11日の「水俣食中毒に関する各省連絡会議」には、通産省から秋山武夫軽工業局長が出席し、清浦雷作東京工業大学教授(応用化学)が作成した「水俣湾の水銀濃度は他地区の都市や工場地帯の海湾の海水と大差なく、有機水銀説の論拠も妥当ではない」旨のレポートを配り、有機水銀説に反撃を加えた。
翌12日、農林水産委員会と社会労働委員会において、国会調査団の調査報告として有機水銀説に至る経緯とチッソの反論が紹介され、関係省庁による原因究明のための調査研究の実施、調査海域の設定、水俣湾の浚渫・埋立、水俣食中毒部会研究費の増額、患者の医療福祉対策の充実などが提言された。
昭和34(1959)年1月、厚生省食品衛生調査会の中に熊本大学医学部研究班、国立公衆衛生院、国立衛生試験所などを中心とした水俣食中毒特別部会が発足し、代表には鰐淵健之熊本大学学長が就いていた。同年11月12日に開催された食品衛生調査会合同委員会は、水俣病の「主因をなすものはある種の有機水銀」と答申したが、発生源については触れられなかった。そして、今後の原因究明は厚生省だけでは困難だという理由で、窓口を経済企画庁(以下「経企」という。)庁に移し、関係各省庁の多角的研究をすることとして、水俣食中毒特別部会は突然解散した。この解散については、この部会の代表である鰐淵健之氏にさえ事前に知らされていなかった。
昭和34(1959)年11月、水産庁はチッソ水俣工場に対し、工場排水の排出停止と工場排水採取のための立入調査を認めるよう要請するが、チッソは通産省に照会のうえこの要請を拒否した。
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厚生省食品衛生調査会水俣食中毒特別部会代表をしていた鰐淵健之熊本大学前学長が、昭和34年11月11日松本楼で開かれた水俣病の各省連絡会議に出席したときの様子を、同行した徳臣晴比古助教授が日記に残している。以下徳臣氏の「水俣病日記−水俣病の謎解きに携わった研究者の記録から−」(熊本情報文化センター、1999年)から引用する。 「昭和34年11月11日晴れ うすら寒し。午後一時三十分より日比谷の松本楼にて水俣病の各省連絡会議に出席。通産省は全く工場の弁護に終始、各省ともなすり合い。 |
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当時の通産省の姿勢の一端が、通産省から経企庁に出向した課長補佐の言葉で語られている。(NHK取材班「戦後50年その時日本は」第3巻「チッソ・水俣〜工場技術者たちの告白/東大全共闘〜26年後の証言、NHKスペシャル」第6章 埋もれていく真実、「排水は止まらなかった」、NHK出版、平成7(1995)年から以下引用する。) 当時、経企庁の水質保全課には、課長補佐として汲田卓蔵が通産省から出向し、対策の原案を練っていた。水質保全課はまだできたばかりで、経企庁の生え抜きは少なく、主に通産省をはじめ厚生省、建設省、農林省などからの出向組で構成され、毎晩のように議論をして対策を検討していた。 汲田も、水俣病の原因は工場排水だと思っていた。 「ほんとに患者さんがたくさんおられましてね。因果関係はもう明らかなんですよ、はっきり言って。僕はそう思ったです、個人的に。現に水銀出してるんだから。無機水銀が有機水銀にどうやって変わったかという学問的なトレースはまだだっただろうけど、全く因果関係がないなんてことは言えなかったですよ」 水産庁をかかえる農林省からの出向者は、排水を止めるべきだという主張もしていた。だが汲田は、通産省の官房に毎週のように呼び出され、強い指示を受ける。 「『頑張れ』と言われるんです。『抵抗しろ』と。止めたほうがいいんじゃないですかね、なんて言うと、『何言ってるんだ。今止めてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら日本の高度成長はありえない。ストップなんてことにならんようにせい』と厳しくやられたものね」 結局、経企庁も通産省も、水銀に関する水質規制や排水停止の措置はとらず、チッソの排水はそのまま流れ続けることになった。水俣の沿岸に水質規制が実施されたのは、水俣工場がアセトアルデヒド工場をスクラップしたあとの、1969年のことだった。 |
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こうした事態の緊迫化にうながされて、寺本知事は、昭和34(1959)年11月24日、不知火海漁業紛争調停委員会を設置して斡旋を開始した。翌25日には、水俣病患者家庭互助会も、チッソに対し、「水俣病は貴工場の排水によって発病したことは社会的事実」として被害者78人の補償金として2億3,400万円を要求した。チッソは、「水俣病の原因が工場排水にあるかどうか確認されていないので患者補償は出せない」と強硬な姿勢をくずさなかったため、患者家庭互助会は、11月28日から水俣工場正門前に座り込みを始めた。患者家庭互助会は熊本県知事に陳情して不知火海漁業紛争調停委員会の調停を要望し、12月12日、県知事、
チッソは、知事に対して、原因が確定していないのだから補償金ではなく見舞金であること、原因が会社の責任でないことが確定したときにはその時点で見舞金を打ち切ること、また原因が会社の責任であることがわかっても追加払いはしないことを調停の条件とした。知事は、近々排水処理装置が完成すれば患者の発生は止まるものと信じ、この際、労災保険等にならった補償額を引き出すことが得策と考えて、この条件をのむこととした。
患者らはこの調停案による金額は低すぎるとして相当抵抗したが、チッソは、患者らの要求に対しては、原因が明らかでないとして応じなかった。
チッソは、12月24日に排水の凝集沈澱処理装置の完工式を行い、翌25日に県漁連と3,500万円の補償金及び6,500万円の融資を内容とする調停案に調印した。残された患者家庭互助会も、生活の逼迫もあり、12月30日に成年患者に年金10万円、未成年患者に3万円などを内容としたチッソとの見舞金契約に調印した。
この際、見舞金の対象者は「水俣病患者診査協議会」が認定することとなっており、見舞金契約が締結される直前の12月25日に厚生省が臨時に診査協議会を設けた。
また、見舞金契約の第5条には、水俣病の原因が将来「工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わない」という条項が入った。
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(6)熊本大学医学部研究班の有機水銀説に対するチッソ及び日本化学工業協会の反論
昭和34(1959)年7月に熊本大学医学部研究班の有機水銀説が出されると、チッソは、いち早く「所謂有機水銀説に対する工場の見解」を用意し、昭和34(1959)年8月5日の熊本県議会水俣病対策特別委員会に提出した。
この中で、チッソは、アセトアルデヒド・酢酸は昭和7(1932)年から、塩化ビニールは昭和24(1949)年から、水銀を触媒として使って生産しているので、一部の水銀は排出され水俣湾に蓄積しているが、それは無機水銀であり、また、生産工程の途中で有機水銀のできる可能性もこれまで報告は無く、むしろ有機水銀農薬の方が問題であるとして、有機水銀説は化学常識からみて疑問があり、単なる推論にすぎないと反論した。
さらに、昭和34(1959)年9月28日、チッソは、「有機水銀説の納得し得ない点(要約)」を発表し、有機水銀説は有機化機構が未解明、世界的にも水銀を使う同種の工場がありながらなぜ水俣だけで起こるのか、昭和29(1954)年から突然発生した理由として終戦時遺棄投入された軍需物資(爆薬)に強い疑いを持つ、肝臓の水銀蓄積量は大きなばらつきがあり水俣病を発症したネコと発症しないネコの濃度範囲は変わらない、これまではマンガン、セレン、タリウムでも水俣病に酷似する臨床・病理所見が得られたなどと言ってきたので信用できない等の理由をあげて、熊本大学の有機水銀説に反論した。
また、昭和34(1959)年8月24日、東京工業大学の清浦教授は、水俣に来て、水俣湾の海水などを調査し、同月29日には、
9月9日には、日本化学工業協会大島竹治理事が水俣を訪れ、チッソが反論を発表したのと同じ9月28日に、原因は敗戦時に湾内に捨てられた旧海軍の爆薬だと発表した。この爆薬については、既に昭和32(1957)年2月に熊本大学医学部研究班が当時の関係者にそうした事実は無いことを確認し、チッソも昭和34(1959)年9月初めに事情を聞きに行っていた。それにもかかわらず、チッソは、爆薬説を大々的に宣伝して、実際に海底調査作業まで行ったが何も出てこなかった。
こうした中央の権威とされた学者も加えた有機水銀説に対する反論をマスコミが大々的に取り上げたため、熊本大学の有機水銀説に力を得て補償交渉を進めてきた患者家族の代表は、自信を喪失し、いつになったら原因がはっきりするのかわからないと不安に思い見舞金契約を結ぶに至ったと語っている。
イ.細川医師のネコ400号実験とチッソの対応
チッソも昭和32(1957)年5月から細川病院長の指導で附属病院に技術部が協力してネコ実験を始めていたが、有機水銀説を知った細川医師は、昭和34(1959)年7月、水銀を使っているアセトアルデヒド製造工程と塩化ビニール工程の排水を直接餌にかけて投与する実験を開始した。
この実験は、もし水俣病を発症すれば工場排水が直接の原因になっていたことを実証する決定的なものであったため、細川医師は他の医師や技術部とは相談せずに個人の責任で開始し、ネコ実験の標識にもただ「係排水」とだけ記した。
昭和34(1959)年10月6日には、アセトアルデヒド製造工程の廃水を直接餌にかけて投与していた400号のネコが発症した。細川医師は、工場の技術部幹部に報告したが、相談の上公表を控えた。
細川医師は、11月30日、工場側から、今後は熊本大学等の研究班に協力することになったため、社内での新たな研究は一切中止する、と伝えられ、ネコ実験の継続も禁止された。しかし、会社側から熊本大学への研究協力は行われなかった。
チッソは、詳細な社内のデータを付けてこれまでの反論を整理して「水俣病原因物質としての『有機水銀説』に対する見解」を作成し、11月2日の衆議院調査団などに配布した。この見解の中では、ネコ400号の発症については一切触れられておらず、結論として「工場排水…を直接動物(ネコ)に投与したのでは、水俣病を発症せしめ得ないことは、…排水に毒物そのものの存在しないことを示している」と記してあった。
水俣病の原因物質であるメチル水銀化合物は、アセトアルデヒド製造工程において副生され、それが排水に含まれて海域に流出したことが後になって明らかになるが、当時の熊本大学医学部研究班にとっては、チッソ工場内でのネコ実験の結果やメチル水銀化合物副生の可能性は知らされないまま、自然界での無機水銀の有機化の立証をチッソから迫られ、さらに困難な実験、研究を強いられることになった。
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(7)昭和34(1959)年12月のサイクレーターの設置をめぐる動き
昭和34(1959)年7月、熊本大学医学部研究班が有機水銀説を発表してから、水俣病が社会問題化し、漁民は排水の完全浄化設備の設置を強力に要求した。また、通産省も、同年10月、チッソに一刻も早く排水処理施設を完備するように指導した。対応策としてチッソは約1億円を投じて排水処理専門会社に凝集沈澱処理装置(商品名「サイクレーター」)を発注した。
イ.サイクレーター設置の社会的影響
同年11月10日、秋山通産省軽工業局長は、チッソに対して排水処理施設の早期設置と原因究明への協力を通知し、翌年3月完成予定だったサイクレーターは、着工からわずか3ヶ月後の昭和34(1959)年12月19日に竣工した。
見舞金契約が調印される直前の同年12月24日に盛大に行われた完工式では、福岡通産局長や熊本県知事を招き、吉岡喜一チッソ社長が「処理水」と称する水を飲んでみせるというパフォーマンスまで演じ、サイクレーターの完成で排水処理は完璧なものになったと公言した。
ところが、昭和35(1960)年初めに湯堂で新たな水俣病患者の発生が報告され、一部の新聞にサイクレーターの効果に疑問が出された。すると、チッソは、入鹿山且朗教授に、処理前の排水とサイクレーターで処理後の排水と書き分けられた試料を持ってきて、水銀測定を依頼した。入鹿山教授は試料の確認をせずそれぞれの水銀量が20ppm、0ppmであったと報告し、その後はサイクレーターの除去効果を信じて、後の論文でもサイクレーターの水銀除去効果を繰り返し述べた。
昭和60(1985)年の関西訴訟(一審)の証人尋問で明らかになったことであるが、施工した水処理会社の設計担当者井出哲夫氏によると、サイクレーターの一番の機能は濁った排水を見た目に綺麗にすることであって、水銀の除去機能は要求されていなかったのである。そもそもチッソが要求した設計仕様は、リン酸、硫酸、重油ガス化、カーバイト密閉炉4設備の排水を処理し、濁度50度以下、色度50度以下、pH 8〜9を保証するものであり、アセトアルデヒドや塩化ビニールなど水銀を使う工程の排水を処理することにはなっていなかった。結果的には、けん濁物質に吸着された一部の水銀は除去されたが、水に溶けたメチル水銀化合物などは除去する設計にはなっていなかった。
完工式でチッソ社長が「処理水」を飲んで見せたことを聞いた設計技術者は、あたかも飲み水を作るかのような錯覚を与えると思い苦々しく感じたという。
実際、チッソは、試運転中に水銀の溶けた排水をサイクレーターに流したところ、除去効果の無いことがわかったので、アセトアルデヒド製造工程の排水は、八幡プールに送り、サイクレーターには流さなかった。
しかし、サイクレーターの完成によって排水は安全になったというチッソの宣伝の影響は大きく、市民はもちろん、研究者もマスコミもこれで水俣病の発生は終わったと思いこんでしまった。寺本廣作熊本県知事も、手記の中で、「サイクレーターが動き始めるともう患者はでなくなると思った。…何年かのちになって、初めてサイクレーターが有機水銀を取り除くことには何の役にも立たぬ装置であったことを知った。不明というのほかはない。」と述懐している。
なお、昭和35(1960)年2月16及び17日に、水俣病の調査のため再び水俣を訪れたカーランド博士は、NIH(米国・国立公衆衛生研究所)で行った追試の結果が熊本大学医学部研究班の有機水銀説を支持するものであったと公表するとともに、チッソの浄化装置にふれて、サイクレーターでは有毒物質は取り除かれないと指摘している。
[注釈]アセトアルデヒド・酢酸製造工程の排水は鉄屑槽を通して百間港に放流していた。昭和34(1959)年12月サイクレーター、セディフロータ(煤などの微粒子処理装置)の工事は完了したが、水銀はサイクレーターでは除去しきれなかったため、敷地内で循環利用する方式の検討に着手した。とりあえず、昭和35(1960)年1月からは酢酸プール、サイクレーター排泥ピットを経て八幡排泥プールに溜め、昭和35(1960)年8月以降は装置内循環方式でアセトアルデヒド、塩化ビニール排水は排水系から切り離された。しかし、余剰排水や清掃排水は八幡排泥プールに流された。
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カーランド博士らは1960(昭和35)年5月、「World Neurology」誌に水俣病の報告を載せたが、その最後に、水俣病及びこれと同一の条件にある他の地域に関して、いくつかの建設的な勧告を提言するのに、いまや十分な情報がそろったと考えられるとして、以下の8項目の「勧告」を提示した。
1. 水俣湾の魚介類が現在もなお有毒であることを示す証拠があり、この魚介類の安全性が適切な動物実験によって確かめられるまでは、漁獲禁止令は強制され続けられるべきである。 2. 水俣湾から若干離れた場所の漁民やその家族に何例かの新患者が発生していたことが判明して、住民に不安を引き起こしているが、この発病はおそらくは湾内から遊泳してきた自由回遊性の魚を摂取したためと考えられる。この新しい患者の正確な診断と検査による確認を急ぐべきである。 3. 水俣湾の魚介類の生態系の詳細な調査を行うべきである。 4. 魚介類の中での中毒物質の正確な化学的形態と、この形態へと変化するメカニズムを確定する研究を行うべきである。 5. 水俣湾の海底から、特に、水銀の大半が集中していると考えられる廃液排水管付近から、水銀を含むシルト(沈泥)を除去する方法はすでに提示されていると思われるが、それには、昔廃液排水管があった地点付近のシルトの上層部分の浚渫を行い、このシルトを陸上の安全な貯留区域へ移す作業が必要とされるのではないかと考えられる。 6. 塩化ビニールの粗製品を純化する方法として、洗浄法の代りに乾留法を用いる可能性を検討すべきである。但し、水銀も重大な空気汚染物質だから、乾留法においても大気の安全基準を超えない安全対策が必要である。経済的に可能ならば、地域の公衆衛生当局はすべての使用済み触媒からの水銀の再利用を、未実施のプラントに勧告すべきである。さらに、水銀を再利用する生産方法であっても、なお水銀の使用量を減らすために、代替の化学処理法を探すべきである。 7. 今後さらに患者発見につとめ、疫学的調査を行い、魚や海底のサンプルの水銀その他の有毒とみなされる物質を化学的に測定する努力を、日本その他の国のビニールプラント付近でもガルベストン湾付近でも継続する必要がある。 各種のキレート剤を急性中毒初期の動物に投与する実験によって得られるデータは、今後仮にヒトに新患者の発生を見た時の早期治療に役立つと考えられる。 (片平冽彦氏訳(都留重人編著「水俣病事件における真実と正義のために−水俣国際フォーラム(1988年)の記録−」頸草書房、1989年より) [注釈]7番目の「ビニールプラント」はカーランドの認識の誤りで、酢酸あるいはアセトアルデヒドプラントとすべきであった。 |
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昭和33年(1958)年、米国の国立公衆衛生研究所(NIH)疫学部長レオナルドT・カーランド博士は、米国に留学中の九州大学医学部荒木淑郎博士(現在、熊本大学名誉教授)から水俣地域に奇妙な神経疾患が発生していることを聞いた。カーランド博士は同年9月に水俣に赴き、採取試料の分析結果などから、翌年には水俣病の原因としてアルキル水銀を疑った。 昭和34年(1959)年7月、有機水銀説が発表されると、チッソは水銀の使用と排出は認めたが、それが無機水銀であり、有機水銀は流していないと強く主張した。工場から原因物質である有機水銀が排出されていないとすれば、海に流れ出た無機水銀がなんらかの原因で有機化したものと考えざるを得ない。これが以降の最大の焦点になった、いわゆる「有機化機転」の問題である。しかし、このような問題のとらえ方はチッソに誘導されたものであることも否定できない。 カーランド博士は、昭和35(1960)年に再度来日し、武内忠男熊本大学医学部教授から情報や試料を入手した。彼は持ち帰った試料やその後荒木博士を通じて取り寄せた試料の分析を行い、有機水銀説を支持する見解を「World Neurology」誌(1960年11月号)に公表した。しかし、この論文で、彼は、水俣病の原因はチッソ水俣工場の塩化ビニール生産工程にあると考えており、それを前提にしていくつかの対策を示している。塩化ビニール製造工程では触媒に無機水銀を使用しているが、工程内でメチル水銀が副生される可能性が考えられないことから、カーランド博士は無機水銀が海水中でメチル水銀に転換するものと推測した。当時、熊本大学の研究者らも同じように考えていた。 結局、発生源の問題は、昭和36(1961)年から昭和37(1962)年にかけて、入鹿山教授らによって、メチル水銀が水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で生成され、それが流出していたことが突き止められた。 有機化の問題が未解決であったとしても、チッソの最大の水銀使用工場がアセトアルデヒド工場であることを指摘することは、問題の焦点を絞るために十分意味のあることであった。しかし、こうした指摘は熊本大学医学部研究班からはなされなかった。逆に武内教授やカーランド博士は塩化ビニール製造工程にのみ目を奪われてしまった。彼らは、昭和34(1959)年にチッソが熊本県議会にアセトアルデヒド製造工程などの水銀使用量を報告した後も認識を変えていない。当時の医学研究者には工場内の製造工程について正確な知識が行き渡っておらず、また、せっかく開示された工場の情報も届いていないというのが実態であった。
カーランドの誤った推測に端を発した、自然界での無機水銀のメチル化を証明しようと研究を続けていたスウェーデンのエルネレフ(Jernelov)博士は、水族館の汚泥を使って、実際に無機水銀イオンがメチル化されることを発見し、昭和43(1968)年の第1回ロチェスター毒性会議で報告した。 自然界におけるメチル化現象は、マゴス博士(1964年)や喜田村教授(1969年)による細菌を用いた実験でも確認され、無機水銀のメチル化による環境汚染はいまや世界中で問題となっている。 |
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2.昭和34(1959)年11月の答申後の厚生省食品衛生調査会水俣食中毒特別部会の解散、昭和35(1960)年1月に設置された水俣病総合調査研究連絡協議会及び日本化学工業協会の田宮委員会の動き
昭和34(1959)年10月6日の厚生省食品衛生調査会合同委員会で、水俣食中毒特別部会の鰐淵代表が、同年7月の熊本大学医学部研究班の発表内容に沿った有機水銀中毒説を中間報告として発表した。
そして、同年11月12日、食品衛生調査会常任委員会(委員長・阿部勝馬慶應義塾大学教授)は、8点の理由を列挙して、「水俣病は水俣湾及びその周辺に棲息する魚介類を多量に摂取することによっておこる、主として中枢神経系統の障害される中毒疾患であり、その主因をなすものはある種の有機水銀化合物である」と厚生大臣に答申して、水俣食中毒特別部会は解散した。阿部委員長は「工場廃液の疑いは濃いが調査会では研究の限界なので、残る問題は関係省庁に任せたい」との談話を残したが、特別部会の解散は突然のことで、鰐淵代表は、これは「あくまでも中間答申だ、…最終的には発生源まで明らかにして、最終答申を出すものだと思っていたので、答申を出して解散と言われ、非常に驚いた」と述懐している。これにより、原因究明は関係省庁が揃った新たな協議会に任されることになる。
渡辺良夫厚生大臣は翌13日の閣議に食品衛生調査会答申を報告したが、池田勇人通産大臣は有機水銀が工場から流出したとの結論は早計だと反論したため、閣議の了解とはならなかった。
[注釈]水俣食中毒特別部会(代表:鰐淵健之熊本大学元学長)より報告された、水俣病の原因は有機水銀化合物であるとする食品衛生調査会答申の結論の理由は、以下の8点である。
1.この病気のおもな症状は身体の自由がきかなくなり、視界が狭くなり感覚が鈍るなどで、これは有機水銀化合物の中毒症状と酷似している。
2.この病気で死んだ人の死体を解剖してみると小脳と視中枢をおかされている。これは有機水銀化合物中毒の解剖例で認められる。
3.この病気にかかった者の尿の中から水銀が普通の人と比べて多量に排出される。
4.死体解剖の化学分析結果によると脳、肝臓、腎臓などにほかの病気で死んだ者と比べ、たくさんの水銀が検出される。
5.水俣湾の海底にたまっている泥の中に、ほかの泥と比べてきわめて多量の水銀が検出される。
6.この地区からとったヒバリガイモドキ(一種のクロ貝)の体内にも多量の水銀が検出された。このヒバリガイモドキをネコに食わせると水俣病と同じ症状を起す。
7.実験の結果死んだネコと水俣病にかかったネコの臓器、ことに脳からほかのネコよりも多量の水銀が検出される。
8.有機水銀化合物、たとえばジメチル水銀化合物、またはエチルリン酸水銀を動物に与えると水俣病と同じ症状を起こす。
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昭和35(1960)年2月26日、食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会解散の後を受けて設置された水俣病総合調査研究連絡協議会(経企庁主管・通産省・厚生省・水産庁)の第1回会議が開かれた。
熊本大学からは内田槇男教授(生化学)、喜田村教授の2名が委員になっていたが、内田教授の報告に対し、東京工業大学の清浦教授は、必ずしも水銀が原因とは言えないと反論した。
同年4月12日の第2回会議では、清浦教授が「有毒アミン説」を発表した。これに対し、同月16日には熊本大学医学部研究班が反論を発表した。
当初この協議会は、6、7回の開催を見込んでスタートしたが、何ら結論を得ぬまま、昭和36(1961)年3月6日の第4回以降開催されることはなく、政府による水俣病の原因究明はなされなかった。結局、この協議会は事実上、有機水銀説をうやむやにするだけの役割に終わった。
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見舞金契約の決着で年を越した昭和35(1960)年以降は、通産省の指導によりチッソは表立って有機水銀説に反論を出すことはなくなり、代わって、有機水銀説への反論・異論を唱える役割は日本化学工業協会(以下「日化協」という。)が担うことになった。その場として日化協は「田宮委員会」を用意した。
チッソに代わって業界団体が水俣病問題に乗り出してきたことは、有機水銀説すなわち工場原因説による影響がチッソだけでなく国内の他の同種工場へ波及することを懸念したものと思われる。
昭和34(1959)年9月には、既に大島日化協理事が爆薬説を主張していた。日化協は、同年12月に水俣病問題に関連した排水対策のため、産業排水対策委員会の中に塩化ビニール酢酸特別委員会を設立した。
昭和35(1960)年4月8日、日化協は、酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄日本医学会会長を委員長に、錚々たるメンバーを集めて「水俣病研究懇談会」を設けた。この会は委員長の名を取って「田宮委員会」と呼ばれ、日化協は、これを中立的、科学的見地からの水俣病への取り組みであると強調した。
[注釈]主なメンバーとしては、顧問に小林芳人東京大学名誉教授(薬理学)、沖中重雄東京大学医学部教授(内科学)、幹事に勝沼晴雄東京大学医学部教授(公衆衛生学)、委員に山本正東京大学伝染病研究所教授、斉藤守東京大学医学部助教授(病理学)、大八木義彦東京教育大学教授(分析化学)のほか、同月12日の第2回水俣病総合調査研究連絡協議会で「有毒アミン説」を発表した清浦雷作教授と戸木田菊次東邦大学教授(薬理学)らも加わった。熊本大学医学部も参加を要請されたが、世良完介医学部長(法医学)はこれを断り、昭和36(1961)年に医学部長が忽那将愛教授(解剖学)に代わってから参加するようになった。
昭和36(1961)年4月から、厚生省は研究費の助成を止め医療費の支出のみとしたため、熊本大学医学部研究班に対する研究費としては、1年限りの文部省科学研究費と、NIHのカーランド博士の尽力によるPHS(Public Health Service;公衆衛生事業)の研究資金だけになっていた。
それまで熊本大学医学部長で研究班長でもあった世良教授は田宮委員会への参加を断ってきたが、昭和36(1961)年4月に医学部長が忽那教授になると、チッソとの対立関係を改めてチッソからの援助を受け入れることとし、そして同年9月からは熊本大学医学部研究班も田宮委員会に加わることになった。
なお、昭和37(1962)年に熊本大学の入鹿山教授らがチッソ工場内でメチル水銀化合物が副生されていたことを証明した論文「水俣酢酸工場水銀滓中の有機水銀」には、研究費の一部がNIHと田宮委員会によるものである旨が記されている。
田宮委員会は、医学界で主導的立場にあった人達が原因究明を始めたということだけで、社会的に大きな影響力を持った。その中で、有機水銀説に対する異説として清浦教授や戸木田教授らの有毒アミン説が発表された。原因については様々な説があり未だ確定していないという彼らの主張がそのままマスコミによって報道され、有機水銀説を相対化させ、原因は未解明という印象を与えることになった。この点で、日化協の田宮委員会が水俣病の原因究明を後退させた影響は大きく、新潟における第二水俣病の発生を許す一因にもなった。
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(1)見舞金契約
昭和34(1959)年12月30日、水俣病患者家庭互助会の代表者とチッソとの間で患者補償に関する調停案(いわゆる見舞金契約)が受諾調印された。
この見舞金契約においては、第4条の「甲(チッソ)は将来水俣病が甲の工場排水に起因しないことが決定した場合においては、その月をもって見舞金の交付は打ち切るものとする」という条項と、第5条の「乙(患者側)は将来水俣病が甲の工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わないものとする」という条項がセットになっていた。通常和解ないし示談条項には請求権放棄条項が含まれるが、「工場排水に起因することが決定した場合においても」などという断りはしないものである。チッソから支払われた「見舞金」は、現在から見るとまことにわずかな額であり、当時としても「労働者の賃金、家庭の消費支出額、交通事故による生命、身体侵害の場合の損害賠償額算定例、他の災害補償例などと比較しても極端に低額」(熊本一次訴訟判決)であった。
昭和34(1959)年の有機水銀説の発表から、チッソの反論、権威ある学者からの異説、食品衛生調査会水俣食中毒特別部会の解散、水俣病総合調査研究連絡協議会の設置、サイクレーターの完成、漁業補償の決着、そして見舞金契約という一連の流れを見ると、年内を目途としたこの時期における「水俣病問題の終息」の構造が浮かび上がってくる。本来は根本的な原因の解明を要する問題であったにもかかわらず、金銭の支払いが行われたことにより事件は解決したものとみなされ、マスコミの水俣病問題への関心も急速に薄れ、原因は未確定ということのままで社会的に幕引きされてしまった。
熊本水俣病問題を曖昧なまま終息させたことでその後見るべき対策がまったく講じられないまま、6年後に新潟で第二の水俣病が発生したのである。
[注釈]見舞金契約の効力についてはその後裁判で争われ、昭和48(1973)年に原告勝訴で確定した熊本一次訴訟判決では、患者らの無知と経済的困窮状態に乗じて極端に低額の見舞金を支払い、その代わりに、損害賠償請求権を一切放棄させたものであるとして、見舞金契約は、公序良俗違反により無効と判断された。
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見舞金契約で登場した水俣病患者診査協議会は、本来は当事者間で決められるべき見舞金の対象者を、国から委嘱された専門家が審査をして決定するというものである。
民間医療機関の診断ではチッソの納得が得られないであろうことを考慮して、昭和34(1959)年12月に「水俣病患者診査協議会」が初めて厚生省公衆衛生局に臨時に設置され、医療費は厚生科学研究費で賄った。その後昭和36(1961)年9月に改組されて熊本県に「水俣病患者診査会」(主管熊本県衛生部)が発足し、ついで昭和39(1964)年3月には熊本県条例による「水俣病患者審査会」が設置された。
昭和35(1960)年2月の水俣病患者診査協議会第一回会合において、規定が作られた。これによると、水俣病の見舞金を求める者は本人または家族が主治医の意見書を添えて申し出て、決定は診査委員の全員一致によることと定められていた。
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見舞金契約の中で定められた認定制度により、それ以前に発見されていた79人が認定され、昭和35(1960)年には4人、36(1961)年には1人の新規患者が認定された。しかし、それ以降、胎児性水俣病患者の認定を除けば、昭和39(1964)年に幼児が1人認定されただけで、昭和44(1969)年までの約5年間、地元の医療機関からは水俣病の疑われる患者発生の報告はなく、審査会は開催されなかった。
表4 水俣病認定審査の変遷
名称 |
水俣病患者診査協議会 |
水俣病患者診査会 |
水俣病患者審査会 |
熊本県公害被害者認定審査会 |
成立
|
昭和34年12月25日 (臨時) |
昭和36年9月14日 (臨時) |
昭和39年3月31日 (制度化、条例制定) |
昭和44年12月27日 (被害者救済法に基づく) |
主管庁 |
厚生省公衆衛生局 |
熊本県衛生部 |
熊本県知事(衛生部) |
厚生省から県へ委嘱(衛生部) |
目的 |
水俣病の真性患者の判定および必要な調査 水俣病棟に対する入退院の適否の診査 (実質上の認定機関) |
同左 但し昭和37年11月29日まで開かれず |
真性患者の判定、付随する調査 (純然たる認定機関化) |
緊急に救済を要する健康被害に対し…特別の救済措置を講ずる |
手続 |
府県衛生主管部長が判定を請求
実際には、主治医の意見書をつけて、本人又はその家族が申請したものに限り受け付ける(昭和35年2月3日診査協議会決定) |
保健所長が判定を請求
同左 |
知事の判定諮問があったとき答申
|
本人の申請による
|
委員 |
7名
|
10名(胎児性患者診定のため3名増員) 徳臣晴比古(熊本大学医学部第一内科助教授) 武内忠男(熊本大学医学部第二病理学教授) 貴田丈夫(熊本大学医学部小児科教授) 原田義孝(熊本大学医学部小児科助教授) 大橋 登( 三嶋 功( 浮池正基( 小川 巌(新日本窒素水俣工場附属病院長) 浜崎直哉(熊本県衛生部長) 伊藤蓮雄(熊本県水俣保健所長) |
10名
|
(水俣病研究会「認定制度への挑戦」1972年より作成)
この間も実際にはチッソ工場からメチル水銀化合物を含んだ排水が流され続けていたが、サイクレーターの設置で排水は安全だと宣伝されたこともあって、次第に市民の警戒心は弱くなっていった。
昭和35(1960)年当時の診査会においては、水俣病の典型症状を揃えたケースでないとなかなか認定されないという状況もあった。さらに、水俣病事件は終息したという考え方が地域社会に広がっていったことや地域社会での差別などがあったため、新たに申請することは社会的に容易ではなく、認定申請自体を抑制する結果になった。このように、潜在的にメチル水銀化合物の影響としての症状を持った患者が広く存在しながら、患者の発生は無いかのように見られることとなった。
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水俣の患者多発地域では、昭和30年代前半から脳性マヒに似た症状の子供が異常に多いことがわかっており、水俣病との関係が疑われていた。昭和34(1959)年3月、喜田村教授らは、「水俣湾の周辺地域において、昭和30年以降出生した乳児の中に脳性麻痺様の病状を示す異常児が比較的多数いる」とし、9名の患者を報告したが、これが胎児性水俣病に関する最初の報告である。喜田村教授は、さらに翌年に5名の患者を加えて、その発生頻度が7.5〜11.9%と異常に高い点を明らかにした。
熊本大学小児科長野祐憲教授らも患者15例を精査して、「原因は胎生期にあって、疫学的には水俣病と関係が深い、患児の毛髪水銀値が高い」と指摘した。しかし、一般の脳性麻痺と明確に異なるところがないため、結論を持ち越した。
昭和36(1961)年3月、その1人の2歳6ヶ月の女児が死亡し、武内教授らが剖検した結果、胎内で起こった水俣病との結論が出て、8月に認定された。同年、徳臣助教授らもその7例を精査して「これらの症状より想定される脳障害部位は極めて広範囲であり、大脳皮質、基底核、脳幹、小脳と中枢神経系のほとんどの部分に及んでいる。この所見は水俣病小児患者剖検に認められた病変部位とよく類似している」とした。そしてこの1例の剖検例にも触れ、「水俣病多発地区に多発したいわゆる脳性麻痺患児の疫学、臨床所見、一剖検例より先天性水俣病の可能性を確信した」と述べた。
同年からは神経精神医学教室も調査に参加し、臨床症状の分析、他原因の脳性麻痺群との比較を行い、水俣で発見された16例は「同一原因による同一疾患である」とした。そして、発生率が異常に高いこと、発生場所と時期が水俣病と一致すること、妊娠中に魚介類を母親が多食していること、母親には感覚障害など軽い症状ではあるが神経症状が見られること、家族に水俣病の患者がいることが多いことなどから、胎盤経由の水俣病と診断した。
翌昭和37(1962)年9月、さらに6歳4ヶ月の女子が死亡し、再び武内教授によって剖検された。この例もまた、病理所見から胎内でおこった水俣病と診断された(10月)。そのために、同年11月29日、この時までに診断保留になっていた16例が水俣病患者診査会において胎児性水俣病と認定された。
汚染が最も濃厚だった昭和30年代前半には流産、死産が多かったことが明らかになっており、出生児の男女の性比が変化した現象なども明らかになっていることから、胎芽期の曝露は流産・死産となった可能性もある。
また、新潟では、熊本での胎児性水俣病の発症を踏まえ、新潟県により早期に受胎調節等の指導が行われた。なお、新潟県では胎児性水俣病は1例のみ報告されている。
[注釈]新潟水俣病一次訴訟では、受胎調節等の指導を受けた者のうち、不妊手術1名、中絶2名をふくむ6名が損害賠償を請求し、不妊手術については50万円、その他については30万円の賠償を認める判決が出されている。
胎盤を経由しておこった中毒の発見は、水俣病が世界で最初である。化学物質の新しい毒性の発見であり、人類の未来を予見させるできごとであった。その後、新潟、アメリカ、イラクなどで胎児性水俣病または胎児性メチル水銀中毒がおこった。 武内教授は胎内でおこった中毒であるために胎児性(fetal)水俣病としたが、臨床的には胎内感染も中毒も先天性(congenital)と呼んでいるから、先天性水俣病と呼ぶこともある。 水俣病患者のうち、胎児性水俣病患者が何人であるのかはっきりしたデータは無い。原田正純医師によると、その後現在までに64例が確認され、このうち13例が死亡しているという。 メチル水銀が胎盤を通過することは、後に動物実験でも確認され、メチル水銀が母乳を経由して子に脳障害を起こすことも明らかになっている。 胎児性水俣病と考えられた患者の保存臍帯のメチル水銀値は1.0ppm以上と高値を示したが、小児水俣病や水俣病発生地区の知的障害児あるいは正常児にも対照より高値を示すものがあった。また、出生後も魚介類の汚染は継続していたので、厳密には小児性と胎児性の区別が困難なものも少なくない。 |
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昭和33(1958)年12月、水俣病患者のための仮病棟
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昭和37(1962)年4月になると、石油化学工業への脱皮をはかるため、チッソは、「安定賃金」制度を労働組合に提案した。
労働組合がこれを拒否したことから激しい労使紛争が始まり、組合の分裂により商店や市民がどちらに就くかで市をも二分する大騒動に発展した。翌昭和38(1963)年1月に争議は終結したが、その後もチッソの労働者間ばかりか市民間にも根深い対立感情を残してしまった。この間、水俣病はほとんど市民の関心に上らず、ますますその影を薄くしていった。
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<コラム>[
水俣工場のアセトアルデヒド生産もピークを過ぎ、石油化学工業への移行で他の企業に遅れていたチッソは、昭和37(1962)年4月、経営の合理化策の一環として「安定賃金」を労働組合(新日窒労組)に提案した。これはあらかじめ他の同業企業並のベースアップを約束する代わりに労働争議権を放棄し、合理化案に協力するというものであった。労働組合と会社側との話し合いは決裂し、労働組合はこれを拒否してストに入った(「安賃闘争」と呼んだ)。これに対し会社側はロックアウト(組合員の締め出し)を行い、同時に組合員の切り崩しを行ってチッソ労組(新労)という第二組合を結成させた。 合化労連傘下の第一組合(旧労)には全国から総評の支援者が集まった。一方、新労は強行就労、旧労の切り崩しを始め、対立は一層激化した。当時チッソ従業員の家族や親類、関連会社、取引商店など、多くの市民もどちらの立場に立つのかを鮮明にしてそれぞれの運動を支援したため、労組間のみならず立場を異にした市民の間にも排斥、憎しみなどの対立感情が生まれ、地域社会を二分する争議に発展した。 結局この争議は熊本地方労働委員会の斡旋により翌年1月に収拾し、チッソの生産は9ヶ月ぶりに正常化されたが、労働組合の分裂とその後の旧労に対するチッソの差別的処遇など、対立感情は後々まで尾を引き、地域に残された市民間の対立も癒されることなく、一部には今日までその痕を引きずっている。 一方、この安賃闘争の間、水俣病は市民の関心事としてはほとんど忘れ去られていた。 |
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4.昭和35(1960)年から3カ年続いた熊本県毛髪水銀調査
昭和35(1960)年10月に、毛髪水銀濃度が水俣病発生の有効な指標になるという熊本大学医学部公衆衛生学教室の喜田村教授の示唆を受けて、熊本県衛生研究所は、不知火海沿岸住民を対象に毛髪水銀調査を開始した。この調査は毎年約1,000人ずつ3年間継続し、汚染地域の住民に関する調査としては非常に貴重なものであった。
この調査の目的は、毛髪水銀量の消長を把握することにより、水俣病の個人的並びに地域的発生の危険性を知り、新たな発生を防ぐというものであった。
毛髪水銀調査の結果は衛生研究所年報に毎年報告され、毛髪水銀濃度別の分布や平均値が公表された。今日では個人の調査結果は本人に知らせるようになってきているが、当時はサンプルを提供した住民が非常に知りたいであろう自分の毛髪水銀濃度の分析結果が本人に知らされることはなかったため、認定申請には活かされなかった。
水俣から不知火海を挟んだ御所浦島では、まだ認定申請者は出ていなかったが、昭和35(1960)年の調査により毛髪水銀量が200ppmを超える異常に高濃度の住民が4人も発見された。
その後、熊本大学第一内科教室は、衛生研究所の毛髪水銀調査の結果をもとに、御所浦地区の80ppm以上の住民に調査票を送り、自覚症状の調査を行った。その結果は、「時々しびれる」というくらいで、高濃度の人達にもほとんど症状が無いということであった。しかし、最も濃度が高かった平均920ppm(根元430ppm、先端1855ppm)の住民からは、手がこわばるとかボタンがかけられない、草履が脱げやすい等の訴えがあり、神経症状があるのではないかと考えられたが、
この時期には、熊本水俣病は既に社会的に関心が薄れたこともあって、毛髪水銀調査は3年で打ち切られてしまった。
[注釈]当時、水俣は熊本大学から見れば交通の不便な遠隔の地であった。御所浦にはさらに海を渡って行く必要があった。
なお、熊本県及び鹿児島県は、患者らの行政不服審査請求に促されて昭和46(1971)年から住民の健康調査を開始したが、それ以前には県による広範囲にわたる健康調査は行われていない。
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毛髪水銀濃度の測定は、水俣病を契機に新潟をはじめ日本で広く使われたことによりその有用性が明らかとなった重要な検査法である。この検査法は、今日では国際的に広く使われている。 メチル水銀中毒の場合、毛髪の調査が大変有用であるというのは、最初は知られていなかった。しかし、熊本大学医学部公衆衛生学教室喜田村教授が、ヒ素中毒でたまたま毛髪にヒ素が移行することからヒントを得て毛髪水銀量を測定したところ、水俣病の原因物質の曝露指標として非常に有用なものであることが明らかになった。 当時カナダやスウェーデンには血中の水銀量について測ったデータはあったが、毛髪の測定は考えつかなかったようである。 毛髪は採取する際に痛みがなく、サンプルを長期間保存しておくことも容易である上、毛根からの長さで分けて精密に測定すれば、経時的な曝露状況も知ることができる。 同様の発想から、スウェーデンの博物館などに保存されている鳥の羽を使って、過去の水銀レベルを調べた研究も1966年頃から出ている。 環境の海水とか河川水などを測って汚染の有無を議論することがあるが、ある時点で有害物質が検出されなかったからといって、過去の汚染が無かったということにはならない。蓄積性の毒物の場合には、食物連鎖の高次の生物中の濃度を測ることの他に、鳥の羽とかヒトや動物の毛髪などの測定も有効である。環境の変化をどうやって捕まえるかということは相当高度な解析能力を要するが、その場所の汚染を反映するような指標をうまく探すことができれば、過去の汚染の分布も知ることができよう。 |
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5.入鹿山教授らによるアセトアルデヒド製造工程廃水からの有機水銀抽出の発表
チッソ水俣工場技術部の石原俊一氏は、昭和36(1961)年7月にペーパークロマトグラフィーでアセトアルデヒド製造工程廃水中にアルキル水銀化合物が含まれていることを確認し、同年12月には抽出した結晶がメチル水銀化合物であることを突き止めた。しかし、この結果はチッソ外部には知らされなかった。
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昭和36(1961)年11月、熊本大学医学部研究班の内田教授らは、水俣湾産のヒバリガイモドキからメチル硫化メチル水銀(CH3HgSCH3)を抽出したことを生化学会で発表した。
有機水銀の発生源を追究していた入鹿山教授らは、昭和37(1962)年頃、それまで試料を調製する段階で有機水銀を逃してしまっていたことに気付き、以前チッソ工場から入手していた未処理の水銀滓の分析を始めた。
チッソはそれまで有機水銀は絶対に排出していないと反論していたが、入鹿山教授らは、昭和37(1962)年8月「水俣酢酸工場水銀滓中の有機水銀」と題する論文(日新医学)に、(アセトアルデヒド)酢酸工場の水銀滓と水俣湾のアサリから原因物質と考えられる塩化メチル水銀(CH3HgCl)を抽出したと発表した。ようやくにして、原因物質である有機水銀の抽出にたどりついた。
昭和38(1963)年2月16日に開かれたPHSの研究費による熊本大学医学部研究班の報告会で、入鹿山教授は、水俣工場アセトアルデヒド製造工程の水銀滓から有機水銀塩を検出したと報告した。
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この報告を、熊本日日新聞が「熊本大学医学部研究班、水俣病の原因で発表。製造工程中に有機化。入鹿山教授、有害物質を検出」とスクープし、一斉に注目することになった。この時、熊本日日新聞はチッソの刑事責任について、「今まで手が着けられなかったけれども、結論が出たなら大いに関心を持たなければならない」という熊本地方検察庁池田貞二検事正のコメントをとっている。これは検察がコメントした唯一のケースだったが、その後検察が動くことはなかった。
これらの新聞記事をもとに、昭和38(1963)年2月19日の参議院社会労働委員会では、工場から有機水銀が海に流れ出るのをくい止める手を打たなければならないのではないかという質問が藤田藤太郎議員から行われ、五十嵐義明厚生省環境衛生局長は「新しい意見が伝えられているので、十分に地元の事情を調べて、必要な措置をとるよう検討する」旨、答弁したが、行政側は具体的な行動はとらなかった。水俣病総合調査研究連絡協議会は、昭和36(1961)年3月の4回目の会合以降は休眠状態になっていたが、再開するよう要求する者もいなかった。この質問に対する答弁も、協議会を主催していた経企庁ではなく、厚生省が答弁した。
また、同年2月20日、熊本大学医学部研究班は、水俣病の原因について、毒物はメチル水銀化合物であるが、水俣湾の貝から抽出された物質とアセトアルデヒド工場の水銀滓から抽出された物質とでは若干構造式が違うので、この点は今後の検討課題であるとの見解を正式に発表した。
昭和39(1964)年1月、白木博次東京大学教授(神経病理)は、科学雑誌「科学」に「水俣病−とくにその有機水銀発生説をめぐって」と題する水俣病研究の総括を載せた。ここでは、水俣病の発生から入鹿山教授によるアセトアルデヒド酸工場水銀滓からのメチル水銀化合物検出までの経緯を文献を引用してまとめ、熊本水俣病の原因がチッソ工場から排出されたメチル水銀化合物であることは自明であるとした。
昭和39(1964)年、橋本道夫厚生省公害課長は、白木教授の「科学」の論文が公表されているので、早急に決着を付けるべきであると主張したが、原因究明の決定は経企庁主管の水俣病総合調査研究連絡協議会で行うとされていたので、厚生省としてはできなかった。そこで、新たに厚生省内の研究費を使って熊本大学の全報告を単行本として和文、英文で公刊しようということになった。昭和37(1962)年の入鹿山教授らの発表内容等を含む、これまでの研究の成果を取りまとめて出版することが昭和39(1964)年12月の大蔵省の予算査定で認められ、昭和41(1966)年3月、熊本大学医学部水俣病研究班の「水俣病−有機水銀中毒に関する研究−」として出版された。
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水俣病が国際的学会で紹介されたのは、昭和36(1961)年9月、ローマで開催された第7回国際神経学会であった。徳臣助教授、内田教授、武内教授、喜田村教授らが、原因物質はメチル水銀化合物であるとした熊本大学の研究成果を報告した。
翌37(1962)年9月、ロンドンで開かれた第1回国際水質汚濁防止会議(WPCF)では、清浦教授が「アミン説」を発表したが、討論者となったムーア博士は疑問に思ってあらかじめ熊本大学の研究結果を確認し、これに反論した。
第2回WPCFは昭和39(1964)年東京で開催された。入鹿山教授はこの学会で水俣病に関する発表を予定していたが、事務局会議に立ち会った宇井純氏によると、政治的にあまりにもホットな問題であるのでこの際取り下げてほしいという事務局の要請で、この発表は見送られたとのことである。
昭和41(1966)年9月、ミュンヘンで開かれた第3回WPCFで、改めて入鹿山教授が熊本水俣病、宇井氏が新潟水俣病に関する報告を行い、水俣病の原因物質は工場排水の中に含まれるメチル水銀化合物であることは、水質汚濁研究者間での共通認識となった。
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−昭和40(1965)年5月の新潟水俣病公式発表から、昭和43(1968)年9月の政府統一見解の発表まで−
昭和40(1965)年1月、椿忠雄東京大学脳研究所助教授(同年4月から新潟大学神経内科教授)は、新潟大学医学部付属病院において有機水銀中毒ではないかと思われる患者を診察した。同年4月、5月、さらに1例ずつ患者が発見され、5月31日、椿教授及び植木幸明教授(脳神経外科)は、その旨を新潟県衛生部に報告した。県は、6月12日、阿賀野川流域に有機水銀中毒患者が7人発生し、2人死亡と正式に発表した。
熊本水俣病に関しては、昭和34(1959)年末の患者や漁民とチッソとの金銭的な和解と世論対策的な排水浄化設備の設置という収拾策によって、根本的な原因の究明やチッソと昭和電工など同種の化学工場に対する調査や対策は行われないままになっていた。そして、ついに第二の水俣病が新潟県で発生した。
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熊本における水俣病の経験があったことから、新潟県は、政府に研究調査を要求した。また、昭和40(1965)年6月16日、県と新潟大学は合同で新潟県有機水銀中毒研究本部を設置した。また同日、新潟大学椿教授、植木教授と新潟県北野博一衛生部長が、原因は阿賀野川の魚と推定されると発表した。6月28日には、新潟県は、漁業組合に対し、阿賀野川下流域での魚介類の採捕の禁止について指導した。
国においても同年6月30日に関係各省連絡合同会議を開き、科学技術庁(以下「科技庁」という。)の特別調整研究費を使って、原因究明の協力体制を作ることを決定した。
患者の発見と有機水銀の排出源の確定が次の課題となり、新潟県衛生部が阿賀野川流域で水銀を使用している3工場の排水や泥土を採取し新潟大学へ依頼して分析を進める一方、同年6月14日から新潟大学神経内科と脳神経外科は保健所と協力して阿賀野川下流住民(対象412戸、2,813人)の戸別訪問調査を実施し、自覚症状、農薬使用状況、川魚摂取状況、飲料水、職業、家族の死因調査、家畜・ネコの状況などを調査した。この調査で自覚症状を訴えた172人に対しては毛髪水銀調査を実施し、50ppm以上の61人(うち200ppm以上は21人)を発見した。
昭和40(1965)年6月21日からは、新潟県、関係市町村、保健所が中心となって、患者発生地区周辺3,849戸、19,888人について同様の追加調査を行った。そして、有症状者、患者家族、川魚多食者など120人の検診と、対照者を含む300人の毛髪水銀を測定して潜在患者の発見に努めた。さらに、患者多発地区幼児384人の検診と妊婦81名の毛髪水銀測定、医療機関の調査、死亡者調査なども行われた。こうして、7月末までに26人の患者を診断し、昭和39(1964)年8月から患者が出ていたこと、既に5人が死亡していたことをつきとめた。
椿教授は、水俣を訪れ
7月には胎児性水俣病の防止対策として、毛髪水銀濃度が50ppm以上の婦人に受胎調節を指導することを決めていた。この結果、新潟においては胎児性水俣病認定患者の発生は1人にとどまったといわれている。
熊本水俣病と比較した場合に、新潟水俣病に関する初期の調査は格段に改善されていたが、当時は、上流にも患者が分布しているとは考えられていなかったので、この疫学調査では、阿賀野川河口から昭和電工鹿瀬工場がある上流60kmまでの全域を対象にしていなかった。
昭和40(1965)年9月8日、厚生省は臨床(野崎秀英新潟大学医学部長ほか)、試験(川城巌国立衛生試験場食品部長ほか)、疫学(松田心一公衆衛生院疫学部長ほか)の3班から成る新潟水銀中毒事件特別研究班を発足させた。
発生源としては、排水口付近の泥や工場内のボタ山から高濃度の総水銀が検出されたことなどの理由から、昭和電工鹿瀬工場に的が絞られた。昭和電工鹿瀬工場は、阿賀野川上流に位置し、昭和40(1965)年1月までアセトアルデヒドの生産を続けていたが、その時には既に止めていた。
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この基準策定の根拠について、同委員会は、日本の水俣病患者がどれくらいのメチル水銀化合物を摂取して発症したか、その最少中毒量の検討を行った。新潟で公式に水俣病患者と認定された26名のうち、死亡者5名、重症者2名、自覚症状のみで他覚症状の少ない軽症者が16名で、軽症者が全体の61%を占めたが、毛髪中の総水銀量はほとんどが200 ppm以上であり、1例だけが56.8 ppmの低値を示した。 スウェーデン水銀専門家グループは、新潟の水俣病患者の毛髪水銀データから発症時における全血中の水銀濃度を0.2〜2 ppmと推定し、メチル水銀化合物に最も敏感な人では毛髪の水銀量は50 ppm、全血中のそれは0.2 ppmとした報告書をとりまとめた。WHO/FAO合同委員会も、日本で魚介類がメチル水銀化合物の汚染を受けている地域で毛髪50 ppm以上の水銀含有者が100名以上おり、このうち水俣及び新潟において全血中水銀濃度0.2 ppm以上が23名あったことから、この報告書の結果を支持した。 WHOは、毛髪で50 ppmあるいは全血で0.2 ppm(赤血球中の水銀に換算すると0.4 ppmに相当する)の水銀濃度を蓄積するようになるには、食物を通して人体に毎日摂取されるメチル水銀量はどれくらいになるのか検討を行った。健康人のメチル水銀摂取量と血中水銀濃度(スウェーデンのTejning、イラクのBakirら)及び毛髪中水銀濃度(日本のKojimaら)などの関係を回帰式から求め、その結果、成人のメチル水銀摂取の上限として0.2 mg/人/週、あるいは水銀量として週に0.3 mg(体重60 kgとする)、すなわち5 mg/kg/週、とするWHO勧告がなされた。 昭和51(1976)年に、WHOは、「環境保健クライテリア1:水銀」を刊行し、成人の最も敏感な集団におけるメチル水銀の最少影響量は血液で0.2〜0.5 ppm、毛髪で50〜125 ppm、これに対応する長期間の1日摂取量は体重1 kg当たり3〜7 μgであると報告した。 昭和53(1978)年に新潟大学の椿教授らは、新潟水俣病発生当初に最低毛髪水銀値(52 ppm)を示した患者の保存試料をジチゾン法から原子吸光法に変えて再分析したところ、82.6 ppmであったことから、発症時の毛髪及び血液の水銀濃度は患者の真の最高値ではなかったことを示唆していたが、平成2(1990)年にWHOから刊行された「環境保健クライテリア101:メチル水銀」では、従来からWHOが提唱していた値(毛髪で50〜125 ppm)が採用され、第33次報告書においても、成人のメチル水銀の暫定的耐容週間摂取量を0.2 mg/週(3.3 μg/kg体重/週)でよいとしている。 2003年のFAOとWHOの食品添加物合同専門委員会(JECFA)第61回検討会では、デンマークのフェロー諸島およびインド洋のセイシェル共和国における胎児期曝露後の小児発達影響についての長期追跡疫学研究の成果を踏まえ、胎児影響を予防するための暫定的耐容週間摂取量を1.6 μg/kg体重/週とした。委員会は、魚介類のメチル水銀濃度の基準を策定する際には健康への悪影響だけでなく、魚介類摂取の栄養学的利点についても考慮する必要性を指摘した。さらに日本でも平成17(2005)年に食品安全委員会が、JECFA が依拠したと同様の研究成果に基づき、妊娠時のメチル水銀の暫定的耐容週間摂取量を2.0 μg/kg体重/週と決定した。なお,成人については、昭和48(1973)年に定められた暫定的耐容週間摂取量0.17 mg(体重50 kg)のままとしている。また昭和48年に定められた魚介類の規制値は、総水銀として0.4 ppm、メチル水銀0.3 ppmと定めている。 |
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昭和41(1966)年3月24日、厚生省新潟水銀中毒事件特別研究班・関係各省庁合同会議において、疫学班は「阿賀野川沿岸部落の有機水銀中毒症集団発生に関する疫学的研究」を提出し、鹿瀬工場排水中のメチル水銀化合物が原因であると報告した。しかし、オブザーバーとして出席した通産省はまたもこれに反論を加え、このため、特別研究班は結論を保留し、会議の内容も秘密とされた。
これに対し、同年6月、昭和電工は、工場排水説に対する反論を発表した。そこでは、工場排水は約30年間排出し続けてきたので、突発的、一時的に病気が発生したことを説明できないとし、さらに、昭和39(1964)年6月16日に発生した新潟地震によって流出した農薬が原因だとする説を展開した。
[注釈]生産を停止する直前は設備の整備をなおざりにして生産量を急増させることから、その工程の廃棄物が急増することは充分あり得る。また、停止後の廃棄物の処分法によっては、一時的な環境汚染を引き起こす可能性もある。
昭和41(1966)年11月には、北川徹三横浜国立大学工学部教授が、新潟地震と津波で信濃川埠頭の農薬が流出し、それが阿賀野川河口から「塩水楔」にのり、逆流して下流域を汚染したという説を発表した。昭和電工は、一貫してこの農薬説をとり、厚生省の研究班や新潟大学が出した工場排水説に対しては、最後まで争う姿勢をくずさなかった。
また、桶谷繁雄東京工業大学名誉教授は、工場廃液と結論づけた新潟大学医学部椿忠雄教授と滝澤行雄助教授を名指しで、農薬会社と結託しているかのように誹謗した「月曜評論」を全国に配布して、昭和電工原因説を非難した。
阿賀野川流域には昭和電工鹿瀬工場以外にも水銀を使用している工場や農薬工場があったが、特別研究班の疫学班は、それらの工場排水は阿賀野川へは流れ込まないことを確認して原因工場の対象から除外し、原因工場としては、昭和電工鹿瀬工場だけが残った。
昭和42(1967)年4月7日、特別研究班は、厚生省に対し、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物が阿賀野川に流入し、川魚の体内に蓄積され、それを摂食した住民が発症した第二の水俣病であるという結論をまとめ、報告書を提出した。同月18日、特別研究班は、科技庁にも報告し、結論を公表した。同月24日には、厚生省は、食品衛生調査会に豊川行平東京大学教授(衛生学)を委員長とする「河川汚濁に伴う汚染食品に起因する危害事故防止対策特別部会」を設置して検討し、8月30日には、新潟水俣病は昭和電工の工場排水が基盤で発生したものであると答申したが、政府結論は科技庁の調整を経てからとされた。
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新潟の被害者は、国の責任で原因を早くはっきりさせること、また、それまで一応解決済みになっていた熊本水俣病の原因についても国がはっきりさせることを求めたが、状況は進展しなかった。
昭和電工の姿勢が変わらないとみた患者らは厚生省に強く補償を求めたが、橋本道夫公害課長は裁判に訴えるよう強くすすめ、昭和42(1967)年6月、患者らは昭和電工を被告として損害賠償請求訴訟を起こした。わが国の四大公害訴訟のうち最初に提起された訴訟であり、その社会的インパクトは非常に大きかった。これとほぼ時期を同じくして、昭和42(1967)年9月に四日市公害訴訟が、昭和43(1968)年3月に富山のイタイイタイ病訴訟が、それぞれ提起され、これを機に公害問題に対する国民世論が大きく変わっていった。
新潟水俣病裁判の原告・弁護団らは昭和43(1968)年1月に
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ア.水俣病の原因物質であるメチル水銀化合物の生成メカニズムの解明
昭和40(1965)年11月、神戸大学に移っていた喜田村正次教授、熊本大学を定年退官した瀬辺恵鎧教授(薬理学)らは、モデル実験においてアセトアルデヒド合成からのメチル水銀化合物の副生に成功し、昭和42(1967)年にはそのメカニズムを明らかにした。
昭和40(1965)年12月、新潟県における第二の水俣病の発生を受けて、厚生省環境衛生局公害課は、新たに予算化された公害調査研究委託費を使って、経企庁の反対を押し切って、全国の水銀を扱う工場について基礎調査を実施した。また、昭和41(1966)年度には、これらの工場のうち有機水銀汚染のおそれの最も大きいチッソ水俣工場、電気化学工業青海工場、大日本セルロイド新井工場とその関連水域を公害調査研究委託費で調査し、この結果をもとに経企庁に規制実施を求めた。
昭和42(1967)年6月、入鹿山且朗熊本大学教授らは、アセトアルデヒド製造工程で触媒として用いられる無機水銀からメチル水銀化合物が副生される反応メカニズムに係る論文において、アセチレンと無機水銀との反応では直接メチル水銀化合物は副生されないが、これに鉄塩、二酸化マンガン及び塩化物を加えることによりメチル水銀化合物が副生されることが推知される、と発表した。
昭和42(1967)年8月、入鹿山教授らは水俣工場アセトアルデヒド製造工程の精溜塔廃液(精ドレン)等から塩化メチル水銀を検出したことを発表した。
昭和43(1968)年5月、水俣病が公害対策基本法の公害に係る疾患であるか否かの国会における質問に答えるため、いわゆる公害病に関する初めての原因及び発生源の確定が政府により行われた。厚生省は、神通川流域で発生したイタイイタイ病に関して、三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所の排水中のカドミウムによる慢性中毒であるとする見解を出した。鉱業法では無過失責任となっているので、相当因果関係が認められているという条件のみで故意・過失の証明が必要なかったこと、カドミウムはイタイイタイ病発症の必須要因ではあるがそれだけですべて説明できるものではないとしたことで、イタイイタイ病は水俣病より因果関係の証明が難しかったが、この見解は、「行政として再発を防ぐため断定する」という政策を確立した最初のケースであった。橋本道夫環境衛生局公害課長はこの見解の決裁を求める際、厚生事務次官から「企業から訴えられたらどうするのか。」と問われ、「訴えられたら受けて立ちます。」と答えて決裁を得た。
イタイイタイ病に対して厚生省が見解を出すことで対応策が成功したことを見た宮沢喜一経企庁長官は、水俣病に対する見解を厚生省から出すよう園田直厚生大臣に要請した。昭和43(1968)年9月26日、厚生省は、熊本水俣病について、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程中で副生されたメチル水銀化合物が原因と断定した。同日、新潟水俣病については、科技庁の特別調整研究費で調査をしたため、科技庁が昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中で副生されたメチル水銀化合物を含む排水が大きく関与して中毒発生の基盤となっていると結論を出し、これらを政府の統一見解として発表した。熊本水俣病の発生が最初に報告された昭和31(1956)年5月から数えて12年目のことであった。
なお、政府統一見解が出されたこの年の5月には、国内で最後まで残っていたチッソ水俣工場と電気化学工業青海工場のアセトアルデヒド製造工程が稼働を停止し、国内における水銀を触媒としたアセトアルデヒドの製造は行われなくなっていた。
ここに至るまで、汚染海域の漁業に関する規制は、漁協による操業自粛だけであり、強制的な漁獲禁止措置は一度もとられなかった。
かつて、昭和34(1959)年11月、経企庁の担当官が水俣現地を視察し、また、翌昭和35(1960)年2月、水質審議会が不知火海南半海域を(旧)水質保全法の調査水域に指定したが、実際に経企庁が水俣海域を指定水域に指定し、アセチレン法塩化ビニール工場や水銀電極電解工場からメチル水銀化合物が検出されてはならないと定め、(旧)工場排水法に基づく規制が開始されたのは、水俣工場のアセトアルデヒド製造が停止した後の昭和44(1969)年2月のことであった。
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1.健康被害が生じる前の、あるいは健康被害が発見される前の対応
生物等の異常を早期に把握し、健康被害の未然防止に役立てる仕組みはいかにあるべきか。また、健康被害を早期に発見するための仕組みはいかにあるべきか。
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(1)経緯
明治41(1908)年に設立された現在のチッソの前身である日本窒素肥料株式会社が水俣工場でアセトアルデヒドの製造を開始したのは昭和7(1932)年であったが、チッソ水俣工場の排水による海洋の汚染と漁民との紛争は既に大正15(1926)年から始まって、昭和43(1968)年の操業停止まで途絶えることはなかった。
昭和26(1951)年から昭和27(1952)年になると百間港付近の汚染はますますひどくなり、生簀の魚が死んで腐臭が漂ったり漁獲が減ったので、
昭和27(1952)年8月、三好礼治県水産課係長が現地を調査し、漁業被害は水俣工場からの直接の排水と長年月に堆積した残渣によって漁獲が減少してきたものと結論づけ、排水に対して必要によっては分析し成分を明確にしておくことが望ましいと報告したが、これに対し何らの対策も講じられなかった。
昭和28(1953)年頃から、水俣湾周辺漁村では、ネコが狂って死んだり、鳥の異常が観察された。昭和29(1954)年には、ネコの数が激減し、ネズミが急増したため、漁民が市の衛生課にネズミの駆除を申し入れた。
昭和28(1953)年から昭和30(1955)年頃には、奇妙な神経症状を有する患者が出始め、受診するようになるが、診断がつかず、それぞれが同一の疾患だとはとらえられていなかった。
(2)考察
ア.企業自らによる環境汚染の予防
有害物質を扱う企業は、その物質に関して生産に関わる有用な情報だけでなく、副生成物をも含めた有害性に関する情報も収集しておく責任がある。このことは企業の自主性に任せていただけでは確実に実行されるものではないので、PRTR(環境汚染物質排出・移動登録)システム等による潜在的な有害物質の把握を企業に行わしめる法的な枠組みも必要である。また、企業内に環境保全部のような部門を設けて専門スタッフを配置したり、環境管理のISO認証取得により、第三者的な監査に基づく環境報告が実行されるようにするなどして、その責任を果たすべきである。
イ.水俣における生物の異常と人の健康影響との関連
1) 環境汚染によって人の健康被害が発生する前には、多くの場合動植物の被害が先行している。水俣の場合にも、魚や鳥、ネコなどの生物に異変が生じていた。
2) 漁民集落のネコが狂死して、ネズミが急増し、漁網が食いちぎられたため、市の衛生課にネズミの駆除が申し入れられた。住民は集団的なネコの狂死を非常に不安がっていたにもかかわらず、行政は原因を追究しようとしなかった。当時の公衆衛生に関する社会的な感覚からすればネズミを駆除できればそれでさしあたり十分と考えたのであろう。しかし、ネコや鳥の異常をそれ以上深く考えないで見逃してしまったことが、手遅れになった原因の一つである。ネコが食べているのと同じ魚を地域住民(漁民)は多食しているという事実を重視して、考察する必要があった。
また、当時は百間排水口付近に係留していた漁船にフナムシが付かなかったことから、虫除けのために船を持ってくる漁民もおり、工場排水が強い殺虫作用を持つことを漁民は知っていた。
3) 漁業被害の発生を住民の健康被害発生の予兆としてとらえ、生態系への影響を調査すべきである。水俣においては、昭和27(1952)年の漁業被害の調査に関する三好礼治係長の報告書が汚染源を的確に指摘しているので、その時点で行政も研究者も汚染調査に着手すべきであった。
化学物質の自然界への影響について、スウェーデンで報告された羽毛中の水銀測定などは、経年的な環境の変化をとらえるよい指標である。
2) 研究面については、自然や生態系の異常を早期に把握する研究が必要だが、そのためには学際的な視点に立って研究する必要がある。科学者にはどうしても物事を専門分野別に問題を限定的にとらえて追究する傾向が強く、日本には総合的な観察から結論を導くという観点がほとんどなかった。
また、自然を全体として観察していれば様々なことがわかるといっても、そのようなテーマは論文になりにくいため、科学者は個別の物質の毒性を調べるなど、業績をあげやすい研究に行ってしまう傾向がある。
エ.環境汚染による健康被害の早期発見のしくみ
1) 急性疾患から慢性疾患に疾病構造の重心が移ってきても、未だに衛生行政が死亡率で優先順位を決めていることが健康被害に対して迅速な対応がとれない一つの原因になっていると考えられる。こうした医学の専門家的な感覚のずれについては、特に注意を喚起する必要がある。
2) 保健・環境行政サイドにおいて、環境汚染による健康被害の問題を早期に把握するための医療現場とのネットワーク形成、汚染地域における健康モニタリングの確立及びそのための保健マンパワーの育成・配置が必要である。
また、医療現場で見られた原因不明の疾患について、環境の影響による健康被害の可能性が無いか早期に検討、把握して、報告し問題提起していくことが重要である。そのためには、医療サイドや行政の意識啓発及び行政がイニシアチブをとって報告を求めるシステムも必要である。
特に、環境汚染による被害を防止するためには、監視活動を行い環境汚染の状況を把握する保健所と医療機関との連携が必要である。
3) 被害の最初の“発見者”は住民自身であることが多いが、健康被害を早期発見するためにも、住民たちの率直な声を聞き取るシステムが必要である。水俣では、工場が原因であるということも、胎児性水俣病も、被害住民の“カン”がことごとく当たっていた。
(3)教訓
1)生物への異常を検知する感性
生物への異常は、人間への影響の予兆である。住民も、企業も、行政も、これらに気づく目を持つことが必要であり、観察して得られた情報を無視したり、過小評価すると大きな被害を被ることになる。
2)自然界の発する情報をモニターし、分析し、対策を講じる制度設計
危険の予兆として現れるいくつかの事実を結びつけて理解し、情報を公開し、必要な対策を講じて危険を回避する責任は、水俣では、第一次的には企業に、さらには行政にあったが、これを総合的に把握する部門や科学的・技術的な学際的対応策がなかったことが被害を発生・拡大させた。自然界が発する情報をモニターし、分析し、必要な対策を講じることができるような制度設計が必要である。
3)住民の声や専門家の知見に敏感に反応し、具体的な行動を起こしうる行政の仕組み
行政は、専門的知識を有し、また権限を与えられていることによる優越的地位に安住することなく、環境や人間の中に生じた異変の最初の発見者である住民の中に入ってナマの声を聞き、健康や環境の専門家の察知した異常をくみ上げるなど、これに敏感に反応する感性を持つべきである。また、行政内部には、収集された情報を活かして具体的な行動を起こすための判断基準と枠組みが整えられている必要がある。
4)行政による情報の公開、フィードバック
行政が把握した情報は、その意味を理解できるように適切なコメントを付けた上で最大限公開し、また、住民個々人から得た試料の検査結果などは本人に返すことを原則とすべきである。このことは、最初の環境汚染情報の提供者である住民の参加・協力を得るためにも不可欠である。
5)エコロジカル・システムに関する調査・研究・教育
地域社会のエコロジカル・システムとして、人間、水域、生物相、社会的・文化的背景の相互関係を総合的に考察する調査・研究が必要である。また、そのための教育の必要性が痛感される。
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2.初期対応
原因不明の疾病が発生した場合の初期対応はいかにあるべきか。
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(1)経緯
水俣における患者対策は、昭和31(1956)年5月1日の水俣病公式発見後、5月28日に行政・医療現場による
初期の水俣病の原因究明は、市、県、厚生省、熊本大学医学部が、それぞれ研究体制を整備して進められた。熊本大学医学部は、県の依頼により、昭和31(1956)年8月に熊本大学医学部水俣奇病研究班を組織し、伝染病舎の患者を学用患者として大学病院に受け入れた。
同年11月3日の研究班報告では、臨床症状や細菌学的検査結果から、伝染病の疑いはほとんど消えて、魚介類を媒介とした重金属中毒が疑われ、汚染原因としてチッソの工場排水が着目された。
新潟水俣病における対応は、昭和40(1965)年5月31日の報告以来、熊本水俣病の研究成果を活かして原因究明体制が早期に作られた。同年6月16日には新潟県と新潟大学医学部が研究班を設置し、健康調査を開始した。そして、原因究明、魚介類の捕獲に関する指導も迅速に行われた。
(2)考察
ア.水俣病発生時の地元の対応
1) 水俣病発生が公式に発表されてからの
2) この疾患は、発病状況及び臨床症状がかつて経験したことの無い疾患であると考えられたので、原因究明には患者を身近で観察して症候を分析する必要があった。しかし、国や県からの費用負担がなかったため熊本大学病院への入院には「学用患者」の制度を使わざるを得なかった。学用患者の枠は通常1科に1名程度しかなかったが、1つの科に6名(小児科)あるいは8名(第一内科)と多くの学用患者を入院させる異例の特別措置がとられた。
イ.初期対応の不足した点−医学研究
1) 当時の患者発生状況からすると、まず急性伝染病を疑うのが常識であった。患者にとっても、伝染病棟なら無料で医療を受けられる。しかし、伝染病でないとわかった時点で、そのことを地域社会に周知徹底させるべきであった。また、漁民の生活と声をもっとよく見聞きする必要があった。
2) 本格的な医学的研究体制のスタートまでに3ヶ月以上経過していたが、地元の大学の強力な応援をもっと早く要請すべきであった。
熊本県は、熊本大学医学部に研究委託する際、三好礼治氏の報告書など、それまでに県が収集した情報を提供しなかった。これがその後の原因究明過程を長引かせた大きな原因になった。
1) 熊本大学医学部研究班が汚染源としてチッソを疑うところまでは順調に経過したが、その後は長期の試行錯誤を余儀なくされた。
これには工場側が製造工程の詳細を開示せず、立入調査や試料採取を認めなかったことが大きく影響した。当時の研究班は化学工場についての知識が不十分であったため、「高価な水銀が大量に棄てられているとは考えられない」などとして水銀には注目しなかった。化学工場においていかなる物質がいかなる工程で使用されているかがはっきり示されていれば、もう少し早く原因にたどり着いたであろう。
[注釈]当時の高校で使われたほとんどの「化学」の教科書には、工業的にアセチレンからアセトアルデヒドを作る水付加反応で水銀触媒を使うことが記載されていた。
原因企業と疑われた工場の姿勢は、原因究明に当たって決定的に重要であり、原因究明活動への企業の協力は必要不可欠である。原因企業と疑われた工場は、往々にして、第三者の原因究明活動に非協力的であり、また、自らが発生源であることを疑わせる事実を隠そうとする。しかし、そのことにより原因究明を遅らせることができたとしても、自らが発生源であった場合は、結局は拡大した被害の責任を負うべきことになる事実を肝に銘じなければならない。
1) 初期対応における対策については、関係者が適切に役割を果たせるよう、行政側が迅速かつ積極的にイニシアチブをとることが重要である。このため、現場の責任者である保健所長等に大きな権限・裁量を与え、機動的に問題解決にあたらせることが必要である。
昭和31(1956)年末には、事態はきわめて深刻で、54人の患者のうち17人が死亡したことがわかったのであるから、熊本県はこのことを重く受け止め、原因究明のためにチッソに対して、自らの工場排水調査を公式に強く要請すべきであった。また、厚生省はこれを強く公式に支持して、政府内の協働作業をおこすべきであった。
[注釈]対応にも様々な段階が考えられる。例えば、予算や人員を投入して調査研究を行い、または漁獲規制等の対応策を検討する段階、原因行為に対する停止命令等の法的措置を講じる段階、あるいは必要な立法措置を行う段階、さらには事後的な補償措置を講じる段階などがあろう。
2) ひとくちに水俣病の原因といっても、原因物質、媒体、原因行為など多義的である。メチル水銀化合物、工場排水、汚染魚、いずれも水俣病の原因である。現象としては工場排水が人を殺したケースでもある。海で生活する漁民は、早くから工場排水を疑っていた。
後の有毒アミン説につながるような、弱った魚、浮いた魚を食べたので漁民家族が水俣病になったという説は間違いで、作為的ですらある。目の当たりに水俣病の恐ろしさを直視した漁民が見るからに有毒な魚介類をあえて多食したとは考えられず、漁民に発症の責任の一端を帰するようなとらえ方は誤りである。
伝染病の疑いが薄れ、昭和31(1956)年11月に工場排水が原因として疑われた時点で、漁業自粛だけではなく、工場排水に対する規制措置の検討も必要であった。
3) 水俣病の場合、因果関係、量−反応関係の確認といった、厳密な原因物質の特定には相当長い時間がかかったが、その間に対策がとれないほど、原因がまったく不明だったわけではない。直接的な原因としての魚介類はかなり早い段階でわかっていた。
水俣病の場合、厳密な原因特定を主張する勢力があったために、魚介類という人の口に入る第一の原因が軽視された。人命に関する緊急性のあることであり、細かな化学式まで求めるのではなく、原因を魚介類として当面の対策をとる必要があった。
水俣湾の魚介類の摂食が原因であることがわかった時点で、被害の深刻さに鑑み、行政は、補償問題と健康被害を天秤に掛けるのではなく、漁獲の禁止措置をとるべきであった。そして、その魚介類の有毒化の原因として工場排水が疑われた時点で、行政は工場の立入検査を実施し、有害物質の排出を停止させる措置をとる必要があった。
4) 一定の状況認識に基づいて、被害の拡大防止のためありとあらゆる手段を動員してでも対処しなければならない急迫した事態と判断すれば、やり方はいろいろ出てくるはずである。その判断は行政が行うが、同時に、政治の決断が必要となる。水俣病の場合には行政及び政治の決断が決定的に欠けていた。
県知事や国会の委員会など政治家による水俣への現地調査が行われたのは、かなり後になってからであったが、政治家が適切な政治決断を行うことができるように情報提供することは、マスコミだけではなく、行政の責任でもある。
人命に関わる緊急事態には原因確定を待ってはいられない。問題解決に責任ある立場の人は、原因についてかなりの確からしさ(probability)を確認したら、それへの対応に伴う補償の問題を抜きにして、その時々で考えられる対応を速やかにかつ広く積極的に決断実行することが必要となる。行政官も政治家も、それによるリスクを負う責任を有している。
初期においては、事態対応型でなく、原因究明の視点も踏まえて、縦割りの弊害を防ぎ、各方面から幅広く情報を収集することが特に重要な意味を持つ。
[注釈]PRTR法(特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律)では、化学物質を扱う対象事業所からの情報収集に関して、第5条第2項に「第一種指定化学物質等取扱事業者は、主務省令で定めるところにより、第一種指定化学物質及び事業所ごとに、毎年度、前項の規定により把握される前年度の第一種指定化学物質の排出量及び移動量に関し主務省令で定める事項を主務大臣に届け出なければならない。」と定めている。
3)企業の積極的な情報開示と協力の義務付け
人の健康を損なう案件については、汚染源の可能性のある企業の積極的な情報開示と協力の義務づけが必須である。
4)医療現場の連携と患者発生地域の調査の実施
初期において、行政・医療関係者などの連携体制を確保し、カルテや入院患者の見直しや患者発生地域の疫学調査を実施することが有効である。
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水俣病患者への差別の原因は何か。またそれへの対応は、どうすればよいか。
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(1)経緯
特定の期間に同様の患者が多数発生していることから、当初伝染病を疑ったことは理解できる。また、医療費が無料である伝染病患者として隔離したことは、患者家族の経済的負担を軽減することには役だった。
原因究明が進み、研究者の間では早い段階で伝染病でないことが判明したが、そのことが十分住民には浸透せず、伝染病との誤解が完全には消えなかった。それが患者差別の一因になった。
(2)考察
ア.伝染病にまつわる差別
水俣地域において、水俣病患者とその家族に対する差別があったという事実、その差別を引き起こした原因は何か、ということを考えたとき、まず最初に「奇病」の伝染性に対する恐れからくる差別を指摘できる。
当時は伝染病患者に対する差別・偏見はあったが、社会防衛的見地が強かったために患者を隔離することを最優先し、差別を是正しようという動きが弱かったと考えられる。水俣病の場合にも、最初は伝染病が疑われ、後に重金属中毒が原因とされても、一般にはなかなかこの疑いが払拭されなかったために、水俣病患者は伝染病にまつわる差別を受けたと考えられる。
イ.発生当時に伝染病を疑ったことの妥当性
「奇病」の集団発生に対して、まず伝染病を疑ったのは極めて常識的な判断であった。一部の医師は早い時期に伝染病ではないであろうと考えていたが、伝染病として市立の隔離病舎に収容したことで、困窮した患者家族の経済的負担を軽くすることはできた。
ウ.伝染病でないとわかってからの対応
昭和32(1957)年から昭和33(1958)年前半まで患者の発生が1名も確認されなかったのは、水俣病は魚介類を食べることによる中毒であろうということが住民に知れ渡り、魚介類の摂食を控えたこともあろうが、一方では症状を持ちながら患者が訴え出にくい世情などもあったためと考えることができる。
しかし、地域住民にとっては、重金属中毒説が伝染病の恐れを完全に払拭するものではなかった。伝染病でないとわかった時点でそのことを地域社会に公表、徹底すべきであった。ただし、伝染病を否定するだけでは水俣病患者に対する偏見を解くことができたかは疑問である。疾病に対する住民の正しい理解のため、行政を中心とする普及啓発活動が重要である。
エ.地域における利害関係等による差別
もちろん差別の原因は、伝染病以外にもある。魚介類を通じた中毒症状ということは一般に知れ渡っていたが、漁民にとっては魚介類が売れなくなっては困るし、チッソの経営者や労働者のみならずチッソに依存していた多くの
患者差別の背景には、さらに、零細漁業従事者の貧困状況や天草などからの移住者への差別意識、障害者への差別意識一般があり、また、後には見舞金受給に対するねたみなどがあって、差別が助長された。
1) 被害者に対する正当なケアはどのようにして行うべきか。伝染病以外の場合でも、原因者が確定するまでの間、治療費の公費負担などにより、被害者の療養生活を保障する方策を考えることが必要である。
2) 医学、保健福祉、教育の各関係者が協力して、患者や家族に対する偏見や差別を取り除き、その人権を守ることの重要性を水俣病事件から強く教えられた。
[注釈]法務省の行政に人権擁護委員の制度がある。
(3)教訓
1)被害住民に対する差別・迫害防止のための行政の役割
被害住民が差別や迫害を受けないためには、正確な情報の徹底した伝達・普及と人権教育が不可欠である。「奇病」の病因がわかったときには、伝染性、遺伝的影響、発症のメカニズム等について誤った印象を取り除き、正確な知識を徹底させる行政の活動が必要であった。
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水俣病原因究明過程において汚染地区住民の健康調査はどのように行われたか。
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(1)経緯
水俣地域で実施された初期の患者発見のための調査は、奇病発生の報告を受けて組織された
昭和31(1956)年11月、厚生科学研究班は、
昭和35(1960)年11月から3年にわたり、熊本県衛生研究所の松島義一(担当責任者)らは、不知火海全域を対象に毛髪水銀調査を実施した。3年間で2,726件調査した。この結果をもとに熊本大学第一内科教室が御所浦地区の住民に調査票を送って症状の調査を行ったが、検診までは行われなかった。
[注釈]熊本県と鹿児島県が健康調査を開始したのは、昭和46(1971)年であった。このときの対象住民はアンケート調査は約11万人、検診は約23,000人、二次検診の受診者は対象者の約半分であった。また同年、熊本大学医学部に第二次研究班(「10年後の水俣病研究班」、班長武内忠男教授)が作られ、大規模な健康調査が行われた。
新潟では、新潟大学が保健所と協力して、昭和40(1965)年6月から阿賀野川下流域の住民2,813人を対象として自覚症状、農薬使用状況、川魚摂取状況などの健康調査を戸別訪問して実施した。さらに、同月、新潟県、関係市町村、保健所が中心となって住民約2万人を対象とした戸別健康調査、有症状者などの検診や毛髪水銀測定を行って潜在患者の発見に努め、昭和39(1964)年8月から患者が出ていたこと、26人の患者が発生し、既に5人が死亡していたことをつきとめた。
(2)考察
一般に疫学では、健康調査や臨床で得られた事実から、疾病の発生を規定する因子に関する仮説を検証し、対策の作業仮説を立てさらに量反応関係などを検証して、因果関係を確定する。また、初期の住民健康調査は、健康への影響の質的な把握や被害拡大の把握(患者発見)の側面も持って行われていた。被害の実態把握のための健康調査と、被害をもたらした原因究明のための疫学調査は、それぞれ調査の設計は異なるものである。
1) 病像の解明のための調査も、時間が経過し、様々な身体的・社会的要因が加わると、真実の姿がわからなくなるので、早期に十分な規模をもって行う必要がある。
2) 初期の熊本大学公衆衛生学教室を中心とした水俣病の疫学調査は、研究費の乏しい当時の状況にありながら、患者の発生地、発症年、月、季節、年齢、性、職業、動物の異常などが調べられ貴重な結果を得た。
昭和34(1959)年7月、熊本大学医学部研究班が有機水銀原因説を公表するまでは、原因究明のための調査研究に全力を注がざるを得なかったため、広く厚く住民健康調査を実施するまでの余裕は熊本大学医学部研究班にはなかったと考えられる。
3) 新潟では、熊本水俣病の知見が集積され、原因物質も明らかであったので、調査に当たっては、その汚染の拡がりを問題とすればよく、かなり効果的に実施できた。しかし、新潟でも、水俣の教訓を受け継いだと言いながら、疑わしい工場がある阿賀野川の中上流部が調査されなかったなど、調査が十分とはいえない面もあった。
水俣病像に関しては、新潟では熊本大学医学部研究班の研究結果と比較検討することが結果として可能になった。
ウ.健康調査等の実施の不徹底
1) チッソの排水による中毒が疑われるようになってからの被害拡大と原因究明に関する疫学調査は、十分ではなかった。
疫学的な対照がとられなかったこと、健康調査の範囲が狭かったこと、毛髪水銀調査等で継続性がなかったことなど、健康調査が徹底されなかったことが、水俣病問題で今なお未解明の部分が残されている原因の一つになっている。
2) 昭和35(1960)年半ば以降になると、患者の発生は終わったという声が、一般にも、また研究班内でも支配的となった。現地からの患者発生の報告がなかったため、熊本大学医学部第一内科でも、論文の緒言に「住民を恐怖のどん底に追い込んだ水俣病も昭和36年以来新患者の発生をみず漸く終息したようである」と記している。
県や国には多額の経費と時間と労力を要する住民の健康調査を実施する考えはなかった。
[注釈]昭和44(1969)年、伊藤蓮雄衛生部長(元水俣保健所長)は、熊本県議会で住民の一斉検診が必要ではないかという質問に対し、「当初、症状のある患者は地元の医療機関にかかっており、(昭和31(1956)年11月の厚生科学研究班の)国立公衆衛生院疫学部長らが行った健康調査票による疫学調査では、潜在患者を全く発見できなかった。今日でも症状のある人は地元の開業医にかかり、その開業医は水俣病の診療について日本一の
3) 新潟においては、初期調査として主に戸別訪問調査を行った。この方法は、潜在患者を見つけ出す意味で大いに評価され、環境汚染の際の教訓とすべきである。また、新潟ではその後も毛髪水銀値が高かった者や症状があった者について追跡調査を行い、昭和44(1969)年12月までには患者は41名となった。
[注釈]その後、昭和45(1970)年には、第1回の調査で川魚を多食したと答えた者や流域漁業組合員11,904人を対象に第2回一斉検診を行った。第1段階としてアンケートによる症状調査を行い(回収率92.5%)、第2段階として2,931人を抽出して現地で検診をした(受診率72.1%)。さらに第3段階として新潟大学において569人に対して精密検査を行い(受診率73.1%)、最終的に231人が水俣病と診断された。
新潟の調査は手本とすべき調査であった。しかし、それでも調査で把握されなかった人が認定を申請して認定されることがあった。環境汚染による影響の調査の実施に完璧は無いことを示している。
エ.健康調査等における行政の役割
1) 研究活動として行う大学の調査と行政の調査とは役割が違う。社会的な要請に応えるための大規模な健康調査には莫大な費用と労力が必要であり、行政と政治の課題として取り組むことが必要である。
2) 被害の範囲を把握するための調査は、早期に十分な規模をもって行う必要がある。 また、異常が見つかった場合は、本人及び社会に情報開示を行うとともに、対策に活用する必要がある。
3) 初期の健康被害の把握について、熊本大学医学部研究班は他に例の無いほどの努力を払ったが、当時、汚染地域や対照地域まで含めると、何万人もの人を対象とした調査が必要となり、悉皆調査は困難であった。
大規模な健康被害の把握は、一大学のみでできるものではなく、また、原因が確定した後の健康調査は原因者に負担を負わせることも考えられるが、原因者が不明の場合はまず行政の責任で行う必要がある。
当時は公衆衛生学上、大規模、網羅的な被害調査を行うという考え方が普及しておらず、また、現実には、熊本県が大規模に実施することは困難であったかもしれない。しかし、調査地区を絞って段階的に実施することは県でも可能であったし、その結果をもってさらに広範な調査の必要性が明らかになれば、国が実施することにもつなげていくことができたであろうし、その後の解決に大きな手がかりを与えることになったと思われる。
4) また、原因者が確定した後の汚染調査や健康調査は、原因者の負担で行うべきであろう。原因者が負担しない場合には、行政が求償権を行使して、強制的に負担をさせる方法も考えるべきである。
オ.毛髪水銀調査
昭和35(1960)年11月から3年間にわたり実施された熊本県衛生研究所の毛髪水銀調査の目的は、不知火海沿岸住民の毛髪水銀量の消長を把握することによって、水俣病の新たな発生を未然に防止することにあった。この調査は、県の予算が乏しいため、一部は千代田生命株式会社の助成金によって行われた。
毛髪水銀を測定する手法は、疫学調査として優れたものであった。ただし、毛髪水銀調査の貴重なデータが、患者(軽症)の発見や汚染の拡がりの調査に活かされなかったことは、非常に残念である。また、水銀汚染の経過を知るためにも、その後も定期的に行うべきであった。また、毛髪調査の結果は被験者に知らせて、その後の対応の相談と指導に役立てるべきであった。
カ.追跡調査
水俣病に限らず、カネミ油症の時にも患者の継続的な観察がなかった。後日になって追跡調査をしようとしても、すでに転居などでどこに行ったかわからない患者が多かったり、あるいは継続的な観察がなかったため協力が得られないということになった。
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「疫学」とは、人間集団における健康障害の発生する頻度と時期、分布を調べ、そこからこの健康障害の原因や関係する諸要因を明らかにする医学の一分科である。 疫学は、本来は感染症の原因を明らかにするものであったが、現代では、非感染性の慢性疾患やガンなどについても対象にしている。そこには、疾病の発生は、原因(病因)・宿主(人)・環境(病因との接触機会や習慣など)の要因の交互作用によって規定されるという認識がある。 したがって、疫学的方法には大別して(1)健康障害の実態把握(疾病分布の記述)、(2)関係要因の検討(仮説の形成と患者対照研究・要因対照研究を通して仮説の立証)、(3)因果関係の決定(実験による確証)になる。また、疫学的な因果関係を証明するには、人間集団の観察により、原因と想定される因子(生物的病因、物理的病因、化学的病因及び精神的病因)と結果と考えられる事実との間に関連性があり、それが一致性、強固性、特異性、時間性、合理性の5条件を満足させる必要があるとされている。 |
対策を講じるためには、第一に汚染と被害の拡がりを確実に把握することが必要である。このためには、治安・補償対策にとらわれることなく、汚染地域住民の広範な健康調査を実施することが必要である。悉皆調査が無理な場合にはサンプリング調査でも実施すべきである。また、調べようとする要因が存在する集団とともに、それが作用していないと考えられる対照群の調査も求められる。
行政は、健康調査を行うかどうか、行うのであればどの程度の規模で行うかなどについて、自らの責任において決断すべきである。
2)早期・広範・徹底的な健康調査の実施
効果的な対策を打つには原因の究明が必要となるが、そのための健康調査においては人的労力、経済的負担を惜しまず、早期に広く徹底的な疫学調査を実施することが大切である。
3)追跡調査の重要性
曝露の程度に着目した広範な地域住民の健康状態の追跡調査は、その後の被害拡大防止や問題の適正な処理に極めて有効である。
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研究者はどのように水俣病の原因究明に関わったか。
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(1)経緯
ア.原因究明に向けた努力
熊本大学医学部研究班をはじめとする研究陣には工学系の学者が加わっておらず、また工場側の非協力もあって、工場内の生産工程に関する理解は極めて不十分であった。
昭和31(1956)年11月の熊本大学医学部研究班報告で、既に水俣病の原因として工場排水による魚介類の汚染を疑い、熊本大学公衆衛生学教室等ではネコに水俣病を発症させる実験を開始した。昭和32(1957)年前半には伊藤保健所長や世良完介法医学教授らのネコ実験により、水俣病が水俣湾産の魚介類による中毒であることが確認されたにもかかわらず、原因物質の特定にはその後長い年月がかかってしまった。
水俣病の発生を報告した細川一病院長自身も、昭和32(1957)年5月、チッソ附属病院内でネコ実験を始めた。昭和34(1959)年7月には水銀を使っているアセトアルデヒド製造工程と塩化ビニール製造工程の廃水を直接餌にかけて投与する実験を開始し、同年10月6日にはアセトアルデヒド製造工程の廃水を直接餌にかけて投与していた「400号」のネコが発症したが、細川氏は工場の技術部幹部の意向により公表を止められた。
昭和34(1959)年7月には、熊本大学医学部研究班は患者の症候及び病理所見、さらに水俣湾内のヘドロから多量の水銀が証明されたことから、本症の原因物質として有機水銀説を発表した。昭和37(1962)年、入鹿山且朗教授がアセトアルデヒド製造工程の水銀滓から塩化メチル水銀を抽出し、昭和40(1965)年、喜田村教授らはアセトアルデヒド合成からのメチル水銀化合物の副生実験に成功した。昭和42(1967)年には、瀬辺恵鎧教授、喜田村教授らはアセトアルデヒド製造工程で無機水銀からメチル水銀化合物が副生される反応メカニズムを確認した。同年、入鹿山教授らは、水俣工場のアセトアルデヒド製造工程の精溜塔廃液等からメチル水銀化合物を抽出した。
昭和35(1960)年4月、日本精神神経学会で、徳臣晴比古助教授、武内忠男教授らが有機水銀説を発表し、徳臣氏は学会賞を受賞した。さらに、昭和36(1961)年9月、ローマにおける第7回国際神経学会においても武内・喜田村・徳臣・内田槇男氏らは水俣病の研究成果を発表し、海外の神経学者も本症の原因がメチル水銀中毒であることを知った。
[注釈]熊本大学医学部研究班は、昭和42(1967)年には朝日賞を、昭和52(1977)年にはLe Prix De L’institut De La Vie(フランス生命研究所賞)を受賞している。
イ.企業側からの反論
原因企業はネコ400号実験のような自らに不利な社内実験結果を隠蔽し、その後実験そのものを禁止した。また、熊本大学医学部を中心とした原因究明に対しては、一企業による反論から、日本化学工業協会による反論へと発展した。特に、中央の学会や大学の権威をもってマスコミを巻き込んだ爆薬説、有毒アミン説などは水俣病の原因に対する世論を混乱させた。
(2)考察
ア.
昭和31(1956)年5月、水俣病の公式発見後、地元ではただちに保健所・医師会・市立病院・チッソ附属病院・市衛生課が協力して奇病対策委員会を組織して、患者の発見、収容、調査に努力したが、原因が不明なため、同年8月、熊本大学医学部に応援を依頼した。この時既に3ヶ月以上経過していたが、もっと早く地元大学に応援を依頼すべきであったという意見もある。
1) 熊本大学医学部水俣病研究班は昭和31年8月に結成されたが、その年度の研究費は皆無であった。昭和32(1957)年5月に文部省の科学研究費を申請したが68万円が与えられたに過ぎなかった。このように初期の水俣病研究は研究機器、薬品、文献情報、研究費及び研究者の不足といった敗戦後の状況の中で、大変な苦労があった。また、学内研究者の間にも意見がわかれ、廻り道をしながら、3年かかって有機水銀という原因物質にたどり着いた。
当時の一般的傾向でもあったが、熊本大学医学部研究班の教室間相互の情報交換は十分とはいえず、研究が重複したり、チッソ工場内の情報が偏在することもあった。
2) 労働衛生、地域保健等の各分野間、さらに、臨床医学、基礎医学、薬学、工学等の間の迅速な連携、情報交換が早期の原因究明のためには不可欠で、学際的研究は必要かつ不可欠であるが、当時の学問研究状況では実現困難であった。現実には労働衛生学の視点からの原因究明は行われなかった。
3) 熊本大学医学部研究班は、結成当初、工学部からの協力の申し出はなく、理学部や工学部の研究者に積極的に協力を要請することもなかった。アセトアルデヒド製造工程で水銀を使う反応は、高校の教科書にも載っているような、工学部や理学部化学科の学生にとってはよく知られた反応であり、理工系の幅広い研究者が参加していれば、もっと総合的なアプローチができたのではないか。なお、理科系学部では薬学部と工学部は最後まで研究班に加わらなかった。
しかし、工学系研究者の参加は両刃の剣である。医学者を中心とした原因究明は、当時の状況に即して言えば、原因企業に対して「第三者的立場」にあったからこそ、有機水銀説を公にできたのではないかという点で、研究班に工学系の学者が加わらなかったことは、かえって良かったのではなかったかとの意見もある。
4) これに対し、チッソ附属病院の医師の中には、熊本大学医学部の研究生になっている者もおり、チッソは熊本大学医学部研究班の研究状況をつねに把握できる立場にあった。
ウ.ネコ実験
伊藤保健所長や世良教授のネコ実験は、高度な機器がなくても、水俣湾の魚介類で発症するという重大な結果を導いた点で示唆に富んでいる。しかし、対策に役立つ重要な結果が得られたにもかかわらず、水俣では魚介類摂食の自粛を呼びかけただけで強力な禁止措置はとられなかった。
1)研究者間の情報開示と協力体制の整備による学際研究の実施
環境問題には学際研究が必要である。これを成功させるためには研究者に対する情報開示と研究者間の協力体制が不可欠である。
2)科学技術と政策決定との関係に対する研究者の認識の必要
科学技術には二面性があり、それを認識することは対策を講じるために不可欠なものであるが、他面で、因果関係などの科学的厳密性の追求や対策技術の完璧性の追求が、汚染者をかばい政策決定を遅らせる道具として使われたことを、研究者も認識しておかなければならない。
3)地域の実情に即した実用的な研究に対する行政の正当な評価
ネコ実験で水俣湾の魚介類が原因であることを確認したように、対策を決める上で有用な結論を得るためには、高価な測定器や最新の技術がなくても実施可能な、地域の事情に適した研究法を工夫し活用することが大切である。また、このような研究によって得られた成果を行政が正当に評価して、そのような研究を奨励することも必要である。
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原因究明における企業の社会的責任として、何を期待すべきか。企業は公害に直面した際、どのような対応を取るべきか。 また、化学工業に関わる企業、業界団体の環境汚染防止のための行動は、いかにすれば期待できるか。
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(1)経緯
ア.チッソ、昭和電工、日本化学工業協会がとった行動
1) チッソは、工場排水路を密かに変更し、被害を拡大させた。また、水俣病と工場排水との因果関係の厳密な証明を要求して、チッソ水俣工場が水俣病の原因物質の発生源である旨の研究成果に対して、執拗に反論した。さらに、工場内で行っていたネコ400号実験の結果を知りながら公表せず、さらなる実験を中止させた。また、水俣病の拡大防止には役立たないにもかかわらず、サイクレーターの効果を誇大宣伝し、世論を惑わせた。その後、アセトアルデヒド製造工程廃液中から塩化メチル水銀を抽出したチッソ内部の実験結果も公表しなかった。
外部の研究者からの立ち入りや試料の採取請求などに対しても拒否するなど、チッソには協力姿勢がみられなかった。
2) 昭和電工は、農薬説を主張し、通産省の指導も加わって厚生省の研究班や新潟大学と争った。農薬用有機水銀(水稲用のフェニル水銀)とメチル水銀との区別が当時当局に十分に理解されなかったため、昭和電工が主張した農薬説は行政当局をも惑わした。
3) 日本化学工業協会(以下「日化協」という。)は、社会問題化した水俣病問題を鎮静化するために業界として積極的に乗り出し、中央の学者や学会の権威を利用して田宮委員会を作るなどして、原因究明を遅らせた。
イ.企業、業界の反論の内容
日化協は、アセトアルデヒド製造工程を持っていた他の工場周辺では水俣病が発生していないではないか、仮にチッソ水俣工場、昭和電工鹿瀬工場が原因であるとしたら、どうして同種の他の工場周辺では発生しないのか、また、チッソ水俣工場は昭和初期から操業し、昭和電工鹿瀬工場の操業も12年の長期にわたっていたが、なぜその時期に水俣病が発生したのか、あるいは、どうしてそれ以前には発生しなかったのかと反論した。
[注釈]昭和20年代後半からの水俣における患者発生はアセトアルデヒド生産量の推移では説明できなかったが、東京大学工学部西村肇名誉教授らは、昭和26(1951)年の助触媒の変更によってメチル水銀化合物の副生率が急増するメカニズムを解明し、平成10(1998)年に「現代化学」(1998年2月号、3月号)に発表した。
(2)考察
ア.企業の刑事責任・民事責任
1) 工場から排出される化学物質により住民の健康を損ない、死に至らしめた企業は、民事責任のみならず刑事責任も問われるべきである。
水俣病における刑事責任については、チッソがとった排水路変更が決め手となって、 チッソの社長、工場長は後に刑事事件(業務上過失致死傷罪)として起訴され、有罪が確定している。しかし、排水路変更だけが問題なのではない。社会的に有用な運輸業や医療行為であっても、過失により人を死亡させ健康を損ねた場合は、業務上過失致死傷に問われるし、故意が認められれば殺人・傷害の責任も問われる。工場から排出される化学物質により、人の生命や健康を損なう公害においても同様であるが、その認識は極めて薄い。企業、業界団体に環境汚染による被害防止のための行動をとらせるには、犯罪の告発という司法手段を含めるべきだろう。
2) 水俣病における民事責任については、チッソ及び昭和電工の損害賠償責任は判決で確定しているが、両社とも水俣病を防止するための措置を怠り、原因究明に協力せず、社外の原因究明の努力に反論し続けている間に、被害は拡大し、両社が負う責任も重くなった。原因者であることを隠し通そうとするのではなく、早期の原因究明への協力と被害防止措置が企業のとるべき道であることを示している。挙証責任が被害者側に不当に要求されていた明白な事例である。
3) 熊本水俣病は世界で初めてであったが、新潟水俣病は熊本の経験を知り、また通産省からも情報や指導通達が出ていたにもかかわらず発生したもので、昭和電工の企業責任は重大である。
4) 化学工場は、安全性の考え方に基づき、排水の安全性を自ら証明できない場合は、結果に対する責任を問われる。昭和47(1972)年に大気汚染・水質汚濁による健康被害について無過失損害賠償責任が法制化され、公害罪法も昭和45(1970)年にできた。
熊本水俣病の原因として、チッソの工場排水が疑われ、有機水銀説も公にされた昭和30年代前半の時期に、他の類似工場は何らかの対策をとっていたのであろうか。また、日化協は有機水銀説の打ち消しに躍起になっていたが、事態を深刻に受け止めて業界内部での点検を行った様子は見られないし、排水に関するデータを公表もせず、一方で立入調査を拒んだ。有機水銀説が出された時期以降の通産省の業界に対する指導とあわせて、企業は、同種の工程を持つ工場に対してどのような対応を行ったのかを検証する必要がある。
ウ.情報開示
2) 潜在的なリスクがありながら、企業秘密を楯に工程を非公開とすることは、許されない。また、プロセスの中で生成する経済的に価値がない化学物質をどう扱うかも、重要な点である。
もちろん、企業にも反論の権利はあるが、人の健康に関わることについては秘匿、歪曲は許されないことを社会倫理として確立すべきである。
1) チッソは他の同種化学工場に比べ、事故も多く労災の発生率が高かった。現場の労働者の安全衛生教育を徹底して、工場内の異常の発生と環境汚染との関係を見る姿勢ができていれば、原因究明などに対する企業の対応も違ったのではないか。
2) 「外に公害が出ているときは必ずその前に工場内の労働環境にも出ているはずだから、職業病のデータで公害の因果関係を把握する」という考え方は重要である。チッソの例で言えば、排水のみでなく、反応塔の中のスラッジ(残渣)を清掃する労働者のリスクも忘れてはならない。
[注釈]飯島伸子氏(環境社会学)は職業病のデータで公害の因果関係を把握するという視点で「公害・労災・職業病年表」をまとめている。
3) 工場排水が環境を汚染し、人の健康に影響が及ぶような場合には、発生源の工場内の労働者にも同様の被害が発生している可能性があるので、労災や職業病の行政と環境行政は常に連携を保って進める必要がある。
[注釈]当初は労働衛生の環境汚染よりも、公害の場合はずっと低い汚染水準なので問題ないと反論の道具として使われていた。
企業は、社会的存在としての責任があり、営利活動だけを至上目的とすることが許されないことは、今日では明らかである。また、少なくとも人の生命に危険を生じさせる犯罪行為・違法行為を行うことが許されないことは、どんな時代にも当然のことである。公害・環境問題においては、企業に行政法規による規制を遵守する責任や損害賠償責任があることは知られているが、場合によっては刑事責任も問われることも強調されるべきである。水俣病事件は、まさに犯罪であった。
2)化学工場の安全確保の義務
化学工場は、廃水を流す時は常に最高の知識と技術を用いて安全を確認し、もし安全性が疑わしい場合には、直ちに、操業中止など必要最大限の防止措置を講じて危害を防がなければならない。特に、化学工場では経済的価値の対象とされていない副生成物の安全確認が必須である。
3)行政の保護を楯とした企業の秘密主義の反省
公害防止対策と情報開示は、長期的視点に立てば企業の利益につながるものである。同一の行政組織が、企業に対する環境面のチェックと企業に対する保護育成を同時に所管することがあるが、企業が行政の保護を悪用して、情報開示などを拒むことがないようにすべきである。
労働衛生・安全教育も重要である。労災・職業病と環境汚染とのつながりの点検が必要である。
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原因究明における国の役割、省庁間の関係はどうであったか。また、原因究明における県の役割はどうであったか。
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(1)経緯
ア.厚生省
厚生省は、昭和31(1956)年8月、熊本県からの連絡を受け、公衆衛生局防疫課が所管したが、翌年からは食品衛生課の所管となった。昭和31(1956)年11月に厚生科学研究班を設置し、昭和33(1958)年には、研究成果と対策を関係省庁・自治体に通知した。昭和34(1959)年10月、通産省に対し、現段階で工場排水に対する最も適切な処置を至急講ずるよう配慮を依頼し、同年11月、食品衛生調査会答申を出した。
昭和39(1964)年に公害課が設置され、昭和40(1965)年12月に全国の水銀使用工場の基礎調査を実施した。昭和40(1965)年度の公害調査研究委託費で熊本大学医学部の水俣病研究成果を集大成した「水俣病−有機水銀中毒に関する研究−」を出版助成し、翌年は3工場について水銀による環境汚染実態調査を実施した。厚生省での水俣病関係は当初から食品衛生課の所管であり、公害課は昭和42(1967)年公害対策基本法が成立し、公害の健康被害の救済の事業が公害化の責任と成ってからのことであった。
水俣病に対する厚生省の見解が閣議了承されたのは、昭和43(1968)年9月であった。
イ.水産庁
水産庁は、昭和34(1959)年11月、経企庁に対し、水俣病は工場排水の影響を受けたと思われる魚介類によると考えられる点が多いので、水俣湾水域を旧水質保全法に基づく指定水域とすべく、調査水域として取り上げ、調査を早急に行うよう、要望した。
同時期に、通産省に対し、有害物質はおおむね有機水銀化合物であること等が明らかにされているので、解決の根本的対策の一環として、至急工場排水に対する適切な措置についての特段の配慮を行うよう要望した。
[注釈]水産資源保護法に基づく措置はとられていない。
通産省は、昭和34(1959)年11月、「水俣食中毒に関する各省連絡会議」で有機水銀説に反論するなど終始有機水銀説に反対の立場をとってきた。また、同月、全国のアセトアルデヒドと塩化ビニール製造工場に対し排水調査を実施したが、結果は公表しなかった。
通産省は、厚生省、水産庁に対しては、有害物質を有機水銀化合物と考えるにはなお多くの疑問点があり、原因をチッソの排水に帰せしめることはできないと考えるが、チッソに対し、直接不知火海に放出していた排水路の廃止、排水処理施設の早期完備、原因究明等の調査について十分に協力するよう指示した旨、回答した。
エ.経企庁、通産省、厚生省、水産庁
水俣病総合調査研究連絡協議会における各省の権限は、食品衛生と医療が厚生省、漁業が水産庁、工場が通産省、全体的な判断の責任は経企庁となっていた。また、この協議会には有機水銀説に反対する学者も加わった。
[注釈]通常各省協議会では意見が一致しなければ原因と対策の結論は出せない。
昭和35(1960)年2月、水俣病総合調査研究連絡協議会第1回会議が開催され、清浦雷作教授は有機水銀説への疑問を表明し、同年4月の第2回会議で「有毒アミン説」を発表した。昭和36(1961)年3月の第4回会議以降は開催されなかった。入鹿山且朗教授がチッソ工場水銀滓からメチル水銀化合物を分析したことによって、昭和38(1963)年に熊本大学医学部研究班がメチル水銀化合物が原因という結論を出したが、どの省庁もこれを無視した。
なお、水産庁の西海区研究所は、昭和35(1960)年から昭和36(1961)年に不知火海の魚介類中の水銀の調査を実施した。
オ.熊本県
熊本水俣病における原因究明の調査研究活動は、水俣保健所が奇病対策委員会に参加して進められた。昭和31(1956)年8月、熊本県及び
昭和32(1957)年4月、水俣保健所長は、自ら保健所内の一室にネコを飼って水俣湾内の魚を与え発症に成功した。
昭和34(1959)年6月、熊本県水産試験場が排水路変更を報告した。昭和35(1960)年11月から3年間、県衛生研究所が毛髪水銀調査を実施した。
新潟県と新潟大学医学部が合同で研究班を設置し、県・市・保健所は、広範な住民健康調査を実施した。
(2)考察
ア.政府
1) 水俣病発生当時は公害法ないし環境法は、整備されていなかった。そういう中で行政は何ができたかという問題をたて、過去の現実をそのまま正当化したのでは何の教訓も生まれない。例えば、公衆衛生行政はどうあるべきだったのか、悲劇が起こったという情報がどういうチャンネルで伝わり、行政の施策に結びついていたのか等という点を検証することが必要である。
2) 水俣病の原因究明と被害防止の対策は、裏と表の関係である。その関係の中、政府のなかで、基本的には産業振興の役割を持ち、産業界からの支持を背景に強力な政治力を持つ通産省が、主導的な地位を占め、工場を擁護する立場から原因の厳密な特定ができていないと主張し続けたことで、政府部内での対策はことごとく遅れ、そして、最後まで有効な対策はとられず被害を拡大させた。
四大公害事件の中で、科学的には因果関係の最も明確な水俣病であったが、昭和43(1968)年に政府見解が出されるまでには、昭和31(1956)年の発見以来12年、厚生省の昭和34(1959)年の食品衛生調査会答申以来9年、新潟における第二の水俣病が昭和40(1965)年に発生して以来3年の歳月を経ている。これを見れば政府の決断はあまりにも遅きに失した。
問題は、ある化学物質が被害をもたらすものであるかどうか、その企業が原因企業であるかどうかが最終的に確定されていない段階でいかに迅速かつ適切に対応するかである。また、「確定する」とは、何のために誰がどのような手続きで判断するのかも問題である。
新潟において、第二の水俣病を発生させてしまった行政のリスク管理責任は大きい。熊本水俣病の発生と被害拡大に対して、きちんとした対策をとらなかったことが、第二の水俣病を生じさせる結果となった。
3) 一連の過程で、行政のもっている情報が住民に開示されたとはいえない。対策が工業、商業、農業、観光業の経済的利害にマイナスに働く場合は、住民、国民からの情報開示及び対策の要求に対して、反対する圧力が行政にかかる。行政がこうした圧力に負けないためには、常に情報開示の姿勢を明確にし、住民に対して科学技術など合理的な根拠を示して説明し、理解を得ることが重要である。
イ.厚生省
1) 昭和31(1956)年の公式発見以後、原因究明の段階では当然厚生省がリードしたが、原因がチッソ水俣工場に絞られてくるにつれて、発生源企業に対する規制権限ないこともあって産業界からのプレッシャーからか厚生省の姿勢が消極的になったように見える。厚生省は、設置法で国民の健康を守ることが定められているにもかかわらず、食品衛生行政の枠に閉じこもり、食品衛生調査会の答申直後に水俣食中毒特別部会を解散し、厚生省の責任で水俣病の原因を最後まで解明する責任を放棄した。
また、昭和32(1957)年、厚生省は熊本県の照会に対して食品衛生法の適用を認めなかったが、昭和34(1959)年に有機水銀説が発表されたり、食品衛生調査会の答申が出されるなど、原因がほぼ特定された時にも、食品衛生法の適用が論議された形跡は無い。原因がわからないから、という理由は対策をとらないための言い訳ではなかったか。すべて行動が消極的であった。
鰐淵健之水俣食中毒特別部会代表の回想ノートによると、食品衛生調査会が開かれた昭和34(1959)年11月12日、厚生省に赴いた鰐淵代表に対して、食品衛生課長が、チッソの工場排水から有機水銀を検出しない段階で魚の有毒化の原因が工場の排水と断定することはやめてほしいと依頼した。鰐淵氏は反対したが、この日の会議でも工場排水から有機水銀が検出されていないことを理由に工場との関係は報告に入れられなかった、とある。
2) 厚生省は、昭和38(1963)年の入鹿山且朗教授の発表(チッソ水俣工場アセトアルデヒド製造工程の水銀滓から有機水銀塩を検出)にも全く反応しなかった。
ウ.通産省
1) 産業界及び政府部内で強大な力を持った通産省(軽工業局)が、水俣病の原因がチッソの排水であることを認めるためには厳密な原因究明が必要であると主張する企業の立場を擁護したため、公害病認定が遅れ、患者救済が大幅に遅れる結果となった。昭和34(1959)年は通産省が行っていた第一期石油化計画が完成の域に近づいており、12月には第二期石油化計画の省議決定がなされて、チッソもこの計画に組み入れられることになっていた。昭和39(1964)年1月の白木博次東京大学教授の論文による熊本大学の研究レビュー公表後は、国の不作為に関して、水俣病総合調査研究連絡協議会の責任の中枢としての経企庁の責任、「工場排水等の規制に関する法律」所管省としての通産省の責任が問われるべきではないか。
2) 通産省がチッソに有機水銀除去効果の無い排水処理施設を造らせたのはなぜか。水産庁は、工場排水の排出停止と工場排水のための立ち入り調査を認めるよう要請していたが、このような排水処理施設の設置を内容とする通産省の対応で、水産庁がなぜ納得してしまったのか疑問である。特徴的なのは水産資源保護の立場からの水産庁の指摘が無視されたことである。自然環境より、経済優先という当時の姿勢の表れである。海の汚染という視点からの具体的対応は弱かった。
1) 水俣病の原因究明や対策を講じるに当たり、政府として統合的に決定すべき責任が全く果たされていない。各省庁の対応は、主管法に基づく権限、事務の範囲にとどまっており、水俣病の歴史は省庁間の積極的権限争い、消極的権限争いの典型であった。各省の設置法の趣旨を厳しく認識すべきである。水俣病への政府の取り組みは、昭和38(1963)年の四日市の公害に対応するために、厚生・通産両省が協力して「黒川調査団」を組織し、その後の総合対策を発展させたこととは対照的であった。
実際、新潟水俣病における省庁間の連携による対応のあり方にむなしさを感じた研究者が多かった。例えば、阿賀野川有機水銀中毒症の研究調査は、厚生省を中心に通産省、経企庁、農林省、科技庁など広く関係省庁の共同体制で取り組んだが、科学技術特別研究促進調整費は、初年度(昭和40(1965)年度)の中間報告で打ち切られた。そのため、厚生省として積み残した研究は、新潟大学医学部が各教室費でそれぞれ追加調査し、最終報告をとりまとめた。
2) 議院内閣制のもとでは、政府として意思決定を行うに当たって、政権与党の行政への影響を無視し得ない。しかし、結果に関し、行政担当者として、誰がどの点にどこまで責任を問われるかが、今もって明らかになっていない。水俣病総合調査研究連絡協議会は、協議の舞台を広くすることで問題の拡散を図ったと言われても仕方ないほどの役割しか果たさず、まずい点の結晶といえる。各省連絡協議会では、一省でも反対すれば合意が得られない。当時、統轄して判断する責任は経企庁にあったが、政府部内で強力なリーダーシップをとる者が不可欠で、これを内閣で指名する制度が必要である。
省庁間の意志疎通や調整をはかることは重要なことであるが、その際にリード・エージェンシー(主導機関)の指名を誤ると、原因究明に熱心な省庁の努力が抑え込まれてしまい、原因究明が遅れることになる。主導機関をどこにするかは、単に省庁間の争いに任せるのではなく、政府の責任において、その決定をする責任者が誰かを点を明確にする必要がある。
3) 省庁間の権限争いは、関係の国家公務員にとっては大きな問題であるが、国民にとっては本質的な問題ではないことに留意する必要がある。法案や政策が各省庁の協議、調整で作られていく過程で、しばしば官僚以外の国民の利益が欠落していく可能性にも留意する必要がある。
4) 各省庁間の確執を解決する一つの方法としては、省庁の縦割りと分立が著しい国から地方に権限を委譲し、首長のもとで一元的に解決方法を調整していくことも考えられる。
オ.県・市
1) 原因究明体制を迅速・的確に確立するためには、国とともに都道府県、市町村のイニシアチブ、地方自治体の主体的取り組みが肝要である。特に選挙により直接選ばれる首長の決断は重要である。
また、社会的、生態的背景を有する環境汚染等による健康被害の究明に当たっている大学等の研究者に加えて、地方自治体の中核を担う保健所、地方の公害・衛生研究所等の役割が特に重要である。
その際、自治体のイニシアチブで原因究明体制を組織して原因究明活動を行い、その結果を公表するためには、保健所、地方衛生研究所、環境科学研究所等に公衆衛生、環境科学等の専門職を養成して配置し、十分な機器等を整備することが必要である。
なお、水俣病の原因究明に
2) 新潟県の調査で阿賀野川をさかのぼるとき、県境までで止まってしまった。環境汚染や被害の拡がりを調査する場合には、県と県との境界で協力・調整が必要な場合があり、新潟水俣病の場合においても、新潟県と上流の福島県との適切な連絡が必要ではなかったか。熊本県と鹿児島県との連絡は、早い段階から水俣保健所と鹿児島県側の出水保健所とが密に連絡を取り合って、患者の発見と収容に努めていた。
(3)教訓
1)政治家、行政官、研究者それぞれの権限と責任の自覚
政治家、行政官、研究者は、それぞれの権限と責任を自覚すべきである。特に行政官は身分保障されている意味を自覚し、原因に関し不確かさが残る場合にも政策の実行を決断することが必要である。
2)省庁横断的な協議会への監視
省庁を集めての政府部内の機関は、その設置目的と成果を監視しなければならない。水俣病では、各省庁が対策をとらないための言い訳として協議会が使われた。各省庁の見解が対立する課題では、政治家である大臣の役割が特に重要である。
3)研究者の調査活動の保障と行政の責任による判断
行政は原因究明のための研究者の調査活動を保障し、その見解を行政の責任において判断し、被害防止策を実施することが大切である。
4)条例制定権の行使など、創意工夫による地方自治権の行使
原因究明に現場の地方自治体及びその研究機関の果たす役割は極めて大きい。国は、そこにまで縦割り行政や中央集権を持ち込むべきではない。また、住民に密着している地方自治体は、国の省庁の意向ばかりを気にするのではなく、時には国の方針と対立することがあっても「地方自治の本旨」に基づき住民の福祉のための対策を講じなければならない。地方自治体には、条例制定権があり、創意工夫により、かなりのことができるはずである。
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新潟水俣病の発生は、熊本水俣病にどのような影響を与えたか。
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(1)経緯
昭和36(1961)年3月、水俣病総合調査研究連絡協議会第4回会議が開催され、以後、活動を停止したが、政府は国会に対しては、ここで検討中と答弁していた。
昭和37(1962)年8月、入鹿山且朗教授らは、チッソのアセトアルデヒド製造工程内の水銀滓から塩化メチル水銀を抽出したと学会誌に発表、翌38(1963)年2月16日、PHS研究班報告会で原因物質を抽出したと報告した。これがマスコミで報道されたことを受け、2月20日、熊本大学医学部研究班は、原因物質はアルキル水銀であるとする結論を発表した。さらに、昭和42(1967)年6月同教授らはメチル水銀化合物が副生される反応メカニズムに係る論文を発表して、学問的には、熊本水俣病はチッソのアセトアルデヒド製造工程内で副生されたメチル水銀化合物が原因であることが確定した。
昭和39(1964)年12月、厚生省の予算査定において、熊本大学医学部研究班の研究成果をまとめた「水俣病」の刊行に向けた公害調査研究委託費が認められ、昭和41(1966)年3月に出版された。昭和40(1965)年12月には全国の水銀使用工場の基礎調査を実施した。
ところが、昭和40(1965)年6月、新潟水俣病の発生が発表され、昭和42(1967)年には一部の患者が損害賠償を求めて訴訟を起こした。昭和43(1968)年1月には、新潟の裁判原告、弁護士らが水俣を訪れ、水俣病患者家庭互助会・水俣病対策市民会議と話し合って、「熊本と新潟の事件は一つのもの、政府は科学者の結論を認めて事件を解決し、被害者救済を実行せよ」という趣旨の共同声明を発表した。
昭和42(1967)年8月、入鹿山教授らは、水俣工場アセトアルデヒド製造工程の精溜塔廃液等からメチル水銀化合物を検出したことを発表した。
四日市ぜん息、三島・沼津コンビナートの開発計画の中止を背景に、昭和43(1968)年5月、当時科学的不確かさは残されていたが、イタイイタイ病に対する厚生省見解が出された。これが行政、政治決断のはじまりである。その後、四日市公害裁判、イタイイタイ病公害裁判の提訴とあわせて、公害問題に関する国民世論が大きく変化しはじめた。
昭和43(1968)年9月、政府は統一見解を発表して、熊本水俣病並びに新潟有機水銀中毒を、それぞれチッソ及び昭和電工による公害病であると認めた。
(2)考察
熊本水俣病の原因究明自体は、独自に進められたのであり、新潟水俣病の発生により特に影響は受けなかった。しかし、新潟水俣病の発生により熊本水俣病も見直されることとなり、熊本水俣病の原因の政治的・社会的な認知という面では、新潟水俣病の発生が大きな役割を果たした。
イ.対策への影響
1) 新潟水俣病の発生は、社会的にも、医学的にも再度熊本の水俣病問題をクローズアップすることにつながった。第二の水俣病が発生したことで、第一の水俣病である熊本水俣病についての政府の政策、原因の公式確定、水俣病の範囲や補償など、様々な側面から見直されるきっかけとなった。また、新潟の被害者が水俣を訪れたことで水俣の被害者運動が始まるきっかけになった。
もう一つの悲劇が起きなければ、事件が凍結されたままの状態で再度問題にされることもなく、熊本の水俣病問題は違った経緯をたどったものと思われる。水俣病という悲劇は、第二の水俣病が起きなければ、それが放置されたままになったであろうという意味で二重の悲劇である。
3) 被害者の運動については、昭和42(1967)年9月、熊本の患者家庭互助会が、被災者の会など新潟の患者らに対して、「昭和電工および政府のずさんな行政に激しい憤り」という手紙とともに、闘争支援として1万円のカンパを贈ったことがきっかけとなって、昭和43(1968)年1月、新潟水俣病患者らが水俣を訪れ、「熊本と新潟の事件は1つのものである」などという共同声明を発表した。こうした患者同士の交流が図られたことは、その後の水俣病事件の展開に大きな影響を与えた。
4) 新潟水俣病は一般には第二水俣病といわれていたが、経企庁の水俣病総合調査研究連絡協議会が形式的には存続しており、熊本水俣病の結論も出していなかったため、政府は阿賀野川流域の有機水銀中毒としてとりあげ、水俣病とはいわなかった。このように、行政には過去の経緯にこだわり誤りを素直に認めないという面がある。
しかし、当時の宮沢喜一経企庁長官はイタイイタイ病の厚生省見解の政治的・社会的な反応とその後の結果をみて、園田直厚相に水俣病は厚生省で処理してほしいともちかけたことから、政府見解決定の方向に進みだした。
(3)教訓
1)原因究明と対策の徹底
熊本水俣病の原因究明は、科学のレベルでは解明済みとなっていたが、行政としては、新潟における第二の水俣病の発生があって、はじめて公式に熊本水俣病の原因とそれによる被害を公式に認知する結果となった。このことは、二度の過ちがなければ何もできなかったことを示しており、政治や行政は、社会問題として鎮静化すれば対策は終わりという姿勢で事に臨むのではなく、最初の事例について原因解明と対策を徹底して行い、再発を防止することが何よりも大切である。
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5.対策
チッソの地域社会における位置や戦後の化学工業・産業政策において占めた位置はどのようなものであり、それは原因究明にどう影響したか。
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(1)背景
昭和20(1945)年、日本窒素肥料株式会社は財閥解体の対象となり、延岡工場は分割されて旭化成株式会社として独立し、また、新たに一部社員が積水化学工業株式会社を設立し、日本窒素肥料株式会社本体は水俣工場を唯一の工場として再出発した。
水俣工場では、敗戦と同時に肥料部門の復旧が始まり、昭和25(1950)年頃には、戦前の生産規模を回復した。昭和25(1950)年からの10年間に有機合成部門では次々に技術の改良刷新がなされ、昭和27(1952)年オクタノール、DOPを製品化して、市場を独占した。戦後においても総合化学工業会社として確固たる地位を築いた。
昭和30年代の日本の産業政策の大きな流れは、石炭から石油への原料転換による化学工業の競争力の強化である。石炭化学も転換前に膨張させて石油化学につなぐという産業政策のため、苛性ソーダの需要は激増し、副生する塩素の使い道としての塩化ビニール工業の重要性も大きくなり、チッソのオクタノール生産がうまく波に乗った。
見舞金契約の決着で年を越した昭和35(1960)年以降は、通産省の指導によりチッソが表立って有機水銀説に反論を出すことがなくなり、議論は日化協が用意した田宮委員会の場に移された。
日化協は、田宮委員会の経費を関係企業に割り振ったが、チッソが一番多く、昭和電工がそれに続いた。
(2)考察
ア.戦後の化学工業・産業政策におけるチッソ・日本化学工業協会・通産省の関係
アセチレン水付加反応によるアセトアルデヒド生産量はチッソが日本一で、昭和35(1960)年には45,244トン、国内生産の40%を占めていた。チッソに代わって日本化学工業協会が水俣病問題に乗り出してきたことは、有機水銀説すなわち工場原因説がチッソだけでなく国内の他の同種工場への波及を懸念したためと考えられる。チッソは、産業政策の上から、生産調整など政府の手厚い保護を受けていた。敗戦後、傾斜生産方式で肥料生産に重点が置かれ、この肥料生産でチッソは戦後の混乱期を乗り越えることができたとも言える。そして、有機合成部門での保護、重化学工業を中心とする高度成長政策の中で、アセトアルデヒドは極めて重要な位置を占めていた。その中で、チッソは主力工場として位置づけられ、その役割は業界が石油化学に転換するまで続いた。
このようなチッソの化学工業界や日本の産業政策に占める位置の大きさが、原因究明を決定的に遅らせた。会社、業界、通産省主導の政府が一体となり、有機水銀原因説を否定して、他の同種工場への波及を防ぐために協同歩調をとっていた。時には原因究明の妨害まであった。通産省—日化協—チッソのつながりは、政・官・業の「癒着」関係といっても過言ではない。これが戦後日本の体制であり、高度成長路線の牽引力となった。
ところで、1950年代の中頃には、戦後アメリカからの技術導入に対する抵抗感から、当時の若い技術者はチッソのようにヨーロッパの技術をもとにして独自の工業化を進める化学工場には強い親近感を持っていた。また、石油化学に転換するということにも抵抗があり、国産の技術でなぜもっとやらないのかという、一種の技術ナショナリズムがあった。日本の産業政策の中で、通産省の技術官僚の中には同じ考え方を持つ者もおり、チッソがそういう化学工場の先頭に立っているという認識を持っていた。
イ.チッソによる水俣の企業城下町化
企業城下町とは、ある特定の地域における私企業の圧倒的支配と、それを受け入れ支持する住民意識によって形成された都市を言う。
チッソは、永年にわたって、財政、経済、政治に大きな影響を与えていくことによって、町の支配者的存在になっていった。
(3)教訓
1)業界として原因企業をかばい合う体質の改善及び再発防止対策の早期の取り組み
化学工業の中で大きな役割、地位を占めていたチッソが、化学工業界全体に与える影響は極めて大きい。しかし、同業他社への波及をおそれて原因企業を業界がかばうことは、最終的に業界全体への大きなマイナスとなる。日化協からは、今日に至るまで水俣病事件に果たした負の役割についての反省が無いが、ミスをかばわず早期に原因究明への協力や、再発防止のための適切な対策を講じることこそ、業界全体の利益につながる。
2)地域社会の企業へのチェック機能
地域の存亡が特定の企業の存立にかかるとはいえ、その企業が大きな誤りを犯したとき、地域とその住民の被る打撃はさらに大きいものがある。自治体を含めて地域社会にも企業の誤りに目をつぶらないで、その企業活動を適正・迅速にチェックする機能が必要である。
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チッソが行った排水路の変更は、どのように考えられるか。
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(1)背景
昭和33(1958)年9月、チッソは水俣湾の百間港に流していたアセトアルデヒド製造工程の排水を、一旦八幡プールへ溜めて上澄みを水俣川河口に放流するように変更した。
翌年3月には、それまで患者の発生がなかった水俣川河口から津奈木方面に患者発生区域が拡大していることがわかった。
通産省は、昭和34(1959)年10月、チッソに対して排水路を元に戻すように通達した。
(2)考察
ア.排水路変更は、刑事裁判で確定した犯罪
チッソ社長と工場長の有罪が確定した水俣病刑事裁判(昭和63(1988)年2月29日上告棄却決定)によれば、この排水路変更は、厚生省の通達などによって工場排水が原因毒物を含有していることを当然認識し得たのにもかかわらず、注意義務を怠り、適切な措置を講ずることもなく水俣川河口に排出したとされているものである。
排水路の変更は、チッソが部内の一部の人の反対を押し切って敢行したもので、公害防止対策として期待されるものではなく、むしろその場しのぎの原因隠しと漁民対策的な側面が強く、結果的には、人体実験を行ったに等しい行為と言うべきである。
排水路を変更したことによって当然起こりうる事態に対し、チッソは監視体制など何もしていなかった。しかも、地域住民はもとより熊本県や
患者発生区域が拡大してもチッソは何の対策もとらなかったが、排水路変更を知っていた通産省がその結果に反応した。このときまで、熊本大学医学部研究班は排水路変更について十分に意識していなかったが、排水路変更と患者発生地域との関連が認識された後も、汚染と被害の拡がりを把握し被害の拡大を防止するための対策には活かされなかった。
1)希釈拡散ではなく、排出抑制を第一義とする化学物質の環境汚染防止対策
汚染物質の希釈拡散は、一般には排水処理の方法として用いられることがあるが、被害拡大と紙一重である。排水経路を変えるなど、重大な変更をするときには、企業自らの責任におけるその後の監視が不可欠である。化学物質の蓄積による環境汚染が問題となりつつあるとき、化学物質の排出量をゼロに近づけていくことが必要である。
企業経営における人命尊重のモラルの低下は、結果として人体実験に等しいことまで敢行させることになる。水俣病は、まさにその典型的な事例である。
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サイクレーターを設置したチッソの意図と、設置した公害防止機器メーカーの行動はどうであったか。また、企業の公害防止対策に期待されるものは何か。
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(1)経緯
昭和34(1959)年8月6日、水俣漁協などとチッソとの漁業補償交渉において、排水浄化装置設置の要求がなされ、同年9月23日、チッソはサイクレーターなどの排水浄化装置設置に着工した。
チッソが水処理会社に発注したのは排水中和、固形物沈降分離装置であって、メチル水銀化合物を除去するための装置ではなかったが、排水の濁りをサイクレーターにかけて除去し、工場排水はきれいになったので安心だと宣伝した。
一方、サイクレーターを設計した水処理会社は、サイクレーターが水銀除去を保証していないことを知りながら、チッソの対外的な宣伝に対しては沈黙していた。12月24日の完工式の席で、チッソ社長が処理水を飲んで見せたことを聞いた設計技術者は、あたかも飲み水を作るかのような錯覚を与えると思い苦々しく思ったと、後に述べている。
なお、チッソは、その後一層アセトアルデヒドの生産を増し、利潤をあげた。
(2)考察
ア.サイクレーター設置のねらい
1) 多大な費用をかけてチッソがサイクレーターを設置しようとしたのは、漁民が苦情を言う濁った水を、見た目にきれいな排水にして水俣湾に流すという漁民対策が最大のねらいであった。また、通産省としても、厚生省から工場排水に対する最も適切な処置を至急講ずるよう配慮を依頼されており、答えを出さなければならなかった。
2) サイクレーター設置は、排水の安全性をPRする要素が強く、チッソが公害防止に真剣に取り組んでのことではなかった。実際、サイクレーターそのものは有機水銀除去を目的としたものではなかった。受注会社の設計技術者の証言によっても、チッソは社長自ら熊本県知事をはじめ多くの市民をだましたことは明白であり、極めて悪質である。
当時は商品化された有機水銀除去技術はなく、工場排水を停止するか、工場操業を停止する以外に対策はなかったという考え方もあるが、工場排水により汚染された魚介類を摂取した人が死んだり病気になっていることが疑われている段階では、後にチッソが行ったように系内で循環再利用するか、当面廃液を貯蔵して処理技術の開発を待つということも考えるべきであった。
3) ドレーン廃水だけについていえば、循環再使用すれば外部への排出をなくすことが可能ではあったが、当時のアセトアルデヒド工程はかなり廃棄物がたまり能率が下がるので、どんどん廃水を抜き出すことによって系内の触媒の活性を維持していた。
実際、昭和41(1966)年6月の完全循環方式への切り替え後も、故障や点検時の廃液は排水としてそのまま流され、海を汚染しつづけていた。
イ.公害防止機器メーカーの行動
サイクレーター完成後のチッソの誇大宣伝を黙認したメーカーの対応は、県知事をはじめ関係者の多くをだます結果になったという点でも問題である。
ウ.企業の公害防止策
1) 企業が外国の特許技術を入れるときに、製造工程のメカニズム、そのメリット・デメリットについてどういう見方をするかということは、途上国にとって非常に大きな意味を持つ。環境へのリスクを事前にマークするだけでも、対策上有用な情報が得られる。
2) チッソは、当時自主技術を開発することで評価されていたが、反面工業化に当たって社会的倫理が欠如していたということもいえる。漁民が乱入して事務所も壊されて、下手をすると操業できないというところに追い込まれて、チッソは初めて優秀な技術者を原因究明やあるいは公害対策に割くようになった。外からの規制とか外圧が無いと動かなかった。また、チッソの内部研究や水銀に関するデータが当初から提供されていれば、事件の展開は随分違ったものになり、多くの犠牲者を出さずに済んだはずである。チッソの内部の研究は安賃闘争で雲散霧消した面もある。それは企業内研究の限界でもある。環境問題において企業の情報開示は不可欠である。
(3)教訓
1)公害防止機器の製造・販売会社の説明責任
公害防止機器の製造・販売会社は、自らの製品の安全性と限界をつねに明らかにする責任がある。製品利用者の誇大宣伝に沈黙することは、その誤りに加担したことになる。
2)企業の公害防止対策内容の情報開示
企業は利益追求のためには、行政や専門家の権威を借りて平気で衆人の目を欺く手段を弄することがあるが、ごまかしの対策は結局大きな費用負担につながる。
企業の講じる公害防止対策についても、正確な情報開示は不可欠であり、それについて外部の専門家がチェックできるようにすることが重要である。
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熊本県・国はどのような対策を講じるべきであったか。また、それは、どのようにすれば可能であったか。
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(1)経緯
水俣病発生当初から、その原因は魚介類であろうと疑われていた。
熊本県は、魚介類の種類や毒性の程度を特定できなかったが、水俣湾産の魚介類が水俣病の原因となっていることを強く疑っていた。
昭和31(1956)年11月、水俣保健所の伊藤蓮雄所長らは、水俣湾産魚介類の摂取及び漁獲の自粛を指導した。
昭和32(1957)年8月、熊本県は食品衛生法の適用を国に照会したところ、同年9月、法の適用はできないとの回答があった。そこで県は漁獲・販売を自粛するよう指導するにとどまった。
昭和34(1959)年12月、熊本県知事らの調停に基づき見舞金契約が締結された。
(2)考察
ア.規制権限の発動について
1) 水俣病の発生、拡大の防止に関し、食品衛生法、漁業法、水産資源保護法、(旧)公共用水域の水質の保全に関する法律、(旧)工場排水等の規制に関する法律等を根拠にして、例えば、食品衛生法第4条第2号に基づく水俣湾及びその周辺海域の魚介類全部の採取及び販売を禁止する告示義務、あるいは(旧)工場排水等の規制に関する法律に基づくチッソ水俣工場に対して水銀又はその化合物を含有する排水を工場外に排出させないよう規制すべき義務等を有する行政庁が、適切かつ時宜を得た立入調査や規制権限の行使等をすべきであったとし、それを怠ったことによる法的責任があるとの次のような意見がある。
・ 昭和32(1957)年8月の熊本県による厚生省への食品衛生法適用照会、昭和33(1958)年7月の厚生省の公衆衛生局長通達、昭和33(1958)年9月から34(1959)年9月ごろまでの排水路変更による被害の拡がり、昭和34(1959)年7月の熊本大学医学部研究班の有機水銀説発表、昭和34(1959)年11月の食品衛生調査会の有機水銀説答申、昭和37(1962)年から38(1963)年にかけての入鹿山且朗教授らのスラッジからの有機水銀抽出、等々、いずれの時期も規制権限の発動が可能であった。つまり、昭和32(1957)年から昭和33(1958)年には有毒化した魚介類が原因と概ね判明し、昭和34(1959)年には魚介類に蓄積されたメチル水銀化合物が原因で、その排出源がチッソ水俣工場ということはおよそわかっていたので、漁獲禁止などの措置がとれたのではないか、というものである。また、原因が厳密に特定されていないことを規制権限が発動できない理由としてきたが、原因が特定された入鹿山教授らの報告の後も、結局行政は動いていない。もともと対策をとる気がなかったのではないかという批判がある。
・ 昭和32(1957)年に魚介類の有毒化の証拠が無いとして食品衛生法の適用はできないと回答した厚生省は、その後魚介類の継続的な監視を行うことをせず、昭和34(1959)年11月の食品衛生調査会答申の時にも、食品衛生法適用の是非を検討した形跡が無い。当時はまだ患者の発生が続いており、こうした事態を目前にして、「その気がありさえすれば、各種の取締法令を発動することで加害者を処罰するとともに被害の拡大を防止することができた」(川本裁判控訴審判決:昭和52(1977)年6月東京高裁判決。確定。)にもかかわらず、何の有効な対策をとらなかったことは不可解である。
・ 昭和32(1957)年4月、伊藤保健所長は水俣病が湾内の魚介類を食べることによって発生することをネコ実験で証明したので、県は被害の拡大を防止するために湾内の漁獲を禁止すべきであった。
また、水産資源保護法で定められた県の漁業調整規則(32条)には、企業に対して具体的に除害設備の設置を命じることができる規定も入っているので、当時、水産資源保護法が使えたのではないか。
[注釈]水産資源保護法の適用に対する裁判における国及び県の主張は、そのような規制権限の法的根拠はなく、水俣病の原因物質も明らかになっていなかった当時の状況のもとで、行政指導を中心にできる限りの対応をしたものであり、水俣病の発生、拡大の防止に関し国家賠償責任は無い、というものであった。
2) これら法に基づく国及び県の行政に関わる法的責任の有無については、現在訴訟で争われている。しかし、行政の在り方として、水俣病の原因の確定や企業に対する的確な指導をするまでに長期間を要し、このような甚大かつ悲惨な被害が発生したことについて率直に反省しなければならない。さらに、今後の行政における公害問題の対策を考えていくうえで、公務員の規制権限の行使と被害拡大の防止、健康・生命を重視した政策決定と迅速かつ的確な対応、情報開示等の観点から厳しい教訓として学ばねばならない。
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食品衛生法は、飲食に起因する衛生上の危害発生を防止し、公衆衛生の安全を確保することを目的として、営業者に規制を加えている。当時の食品衛生法にも、第4条に有毒又は有害物質を含んだりこれが付着する食品の販売、またそのための採取・製造・加工・調理等を禁じる規定があった。また第22条には、これに違反する食品営業者に食品の廃棄を命じたり、営業許可を取消す等の行政的措置を講じることができることが規定されていた。
漁業法は、漁業者・漁業従事者に組合を組織させて、水面の利用の適正をはかって、漁業生産力を発展させる等を目的とした法律である。その第65条は、漁業取締・調整のため、主務大臣や都道府県知事が、水産動植物の「採捕」や処理、また販売等の制限や禁止をするための省令・規則を制定できることを定めている。また水産資源保護法は、水産資源の保護培養をはかって、漁業を発展させる目的の法律であり、その第4条は、漁業法第65条と同様に省令・規則を定めることができることを定めている。そして、この2つの法律の規定に基づいて、熊本県でも、水産動植物の繁殖保護、漁業取締等の漁業調整を行うため、熊本県漁業調整規則が定められていた。同規則は主に漁業の許可や、一定期間や場所での禁漁・漁法の制限などを定めている。しかし、それだけでなく知事が公益上必要と認めるときに、許可の取消ができるとする規定があり、また水産動植物の繁殖保護に有害な物の遺棄、漏せつするおそれあるものの放置を禁じ、違反者に必要な除害措置を命じる規定があった。
「公共用水域の水質の保全に関する法律」(水質保全法)と「工場排水等の規制に関する法律」(工場排水規制法)は、水質汚濁防止法が制定されるまで、水質二法と呼ばれる水質汚濁防止のための法律であった。これによると、まず水質保全法により、経企庁長官が水質汚染が問題となっている水域を指定するとともにそれぞれの水域へ排出される汚水の水質基準を設定し、次に、指定水域の水質基準を維持するために、工場排水規制法で、内閣が規制対象施設とその主務大臣を政令で定めて、主務大臣が所管の施設の排水規制をするしくみとなっていた。
これらの法令を、水俣湾付近での漁獲の禁止、魚介類の販売禁止、工場の操業停止・排水施設の改善など、水俣病の拡大防止のための行政施策をとるための根拠として利用できなかったかどうか、事件史の中で厳しく問われている。 |
1) 水俣病の発生初期に、工場排水中の原因物質が何であるか、また、どのようなメカニズムで原因物質ができるかに関係なく、伊藤保健所長のネコ実験の結果などから漁獲を禁止し、工場排水の疑いを公表することで工場側に対策をとらせるなど、被害の拡大を防ぐべきであった。
チッソ水俣工場の排水が疑わしいとなった早い時点で、熊本県又は厚生省は、チッソに対して公文書で照会をして、回答を求めるべきであった。そうすれば照会を受けたチッソは、回答をせざるを得ないし、照会への回答を契機として自ら調べてみることにつながり、その後の責任回避もできなくなったであろう。
2) 目の前に展開する事態に政治、行政がどう対応するか。様々な工夫が必要だろうが、基本は住民の健康であり、環境を破壊から守ることにある。
排水路の変更による新しい患者発生と、食品衛生調査会の答申、閣議における池田通産大臣の発言を契機として、厚生省、通産省、水産庁、経企庁が主体となって、発生源評価を目的にしたプラントそのものの総合調査を新たに実施すべきであったが、実施されなかった。これとは対照的に、四日市では昭和38(1963)年11月から政府委託(厚生・通産両省)による黒川調査団の調査が始まり、この勧告から基本総合対策が始まった。これが公害対策基本法を制定する出発点となった。
水俣病事件では、政治、行政は、被害防止のために積極的な対応をした形跡は無い。むしろ、政府部内では、原因究明にブレーキをかける動きもあり、被害を拡大させた。政府の水俣病総合調査研究連絡協議会の設置と運営には、この問題を早期に解決しようとする政治的意思は認められず、原因確定の引き延ばしと各省の責任のがれの場になってしまった。
公害や公衆衛生の対策を進めるには、各省連絡会議の内容を含めて検討の過程を全部オープンにすべきである。また、大臣の閣議後の記者会見で表明するなど、政治家である大臣が発表したり、マスコミに取り上げられるような発表の場の選択も重要である。政治が行政を主導して対策を始めるべきであったのではないか。
ウ.地方自治体の役割
1) 見舞金契約での熊本県の立場は、漁業紛争の調停とともに治安事件としての水俣病事件の「収拾」を意図したものであった。
後にこの見舞金契約は、水俣病第一次訴訟の熊本地方裁判所判決において、民法第90条のいわゆる公序良俗に反し無効とされたが、県知事も加わった調停内容にはチッソの排水が原因であっても損害賠償請求権を放棄させる条項や低額な見舞金などの問題があった。
2) 明治以降の中央集権化では、社会保険制度や教育制度など優れた点もあったが、地方工業都市に集中した公害は中央集権化の弊害の現れである。
機関委任事務となっている規制権限を発動するため、国の指示を仰がなければなかったことが、その後の水俣病の問題解決にあたっての熊本県の当事者意識を弱め、的確な対応にとってマイナスとなった。地域の問題を地域で適切に解決していくためには、今後は環境行政を含め地方分権を強力に推進する必要がある。
熊本水俣病では、地方に伊藤保健所長、熊本大学医学部研究班といったしっかりした中心があったから、ある程度原因究明も進んだ。
また、行政施策面での業績は、水俣市立病院の水俣病専用病棟とリハビリテーションセンターの建設がある。
(3)教訓
1)国・県の出発点は水俣病の悲劇を繰り返さない決意とその具体的な行動
事件の節目節目で、行政がとりうる対策をとらず、被害を拡大させてしまったという歴史を忘れることなく、このような悲劇を繰り返さない決意と具体的な行動が、国・県の今後の環境対策の出発点となる。
2)被害拡大防止のための措置への説明責任
被害の拡大防止のために、国・県はその時々に適用可能な法令を最大限に活用するなどして、健康・生命を重視した政策決定と迅速かつ的確な措置を講じ、さらに必要な情報開示を行うべきである。また、ある対策をとる理由、又は対策をとらない理由を国民に説明する責任を果たし、被害拡大を防止するための法律上の権限が不十分であれば、国会は速やかに新たな立法をすべきである。
3)現地から「学び」、批判者を含む当事者の意見を「聞く」こと
現地の行政担当者のみならず国の担当者は、現地を歩いて見ることがまず大切である。そして、患者、家族、さらにNGOなど批判者のいうこともよく聞いた上で、国民の納得のいく公正な判断を下すべきである。
4)地方分権の推進
環境や健康に関する地域の問題を早期に適切に解決していくためには、地元の地方自治体に権限を持たせるなど、地方分権を推進する必要がある。公害対策は住民の圧力による地方自治体のイニシアティブで戦後の日本で発達した。
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6.政策決定
政策・価値の優先順位はどうであったか。
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(1)経緯
戦後の復興にあたって、政府は、肥料と石炭に重点をおき、いわゆる傾斜生産方式をとった。水俣工場では、戦後直ちに肥料部門の復旧が始まり、昭和25(1950)年頃には戦前の生産規模を回復した。
昭和30(1955)年頃からは、重化学工業化を中心とした技術革新と設備更新の政策的な推進により、年率10%前後の高度経済成長を達成した。国際経済競争力の強化という国家的目標のもと、日本は、官民挙げて経済成長に邁進した。
チッソは昭和27(1952)年、アセトアルデヒドからオクタノールの誘導・合成に成功し、引き続き塩化ビニールの成型に不可欠な可塑剤DOPも製品化して、たちまち市場を独占化し、原料のアセトアルデヒドと共に、増産に増産を重ねていった。
通産省は、昭和30(1955)年、「石油化学工業育成対策」を作成し、日本の経済自立と国際競争力強化をはかった。
昭和33(1958)年、江戸川の本州製紙の工場排水による漁業被害をめぐって、漁民と工場側が乱闘する事件がおき、東京都は、一時操業を止めさせたが、チッソの場合には一時操業を止めるような指導はしなかった。
昭和34(1959)年11月、水俣市議会は、チッソの操業が停止されれば極めて重大な結果を招くので操業停止にならないよう要望する内容を含む決議書を採択した。同決議書を持って、水俣市長、市議会、商工会議所、農協、労組等の代表が、知事に陳情した。
昭和42(1967)年7月21日、公害対策基本法が成立。これにより、健康保護は第一義的なものと考えらた。昭和45(1970)年の公害対策関係法律の整備により生活環境の保全においても経済との調和条項が削除された。
(2)考察
ア.時代背景の評価
1) 水俣病発生当時は、経済成長最優先の時代で環境問題等への配慮はうすく、経済成長と所得の増加を望む声は全国的に強かった。
さらに、一般的な意識として、国民の大多数が豊かで大きなパイを得るためには、一部の被害はやむを得ない犠牲だと思っている傾向が日本人の中にあり、このことが水俣病の発生、拡大をもたらした一因ではないか。戦後の日本社会はキャッチアップ型で成功したといわれるが、水俣病の存在を考えれば、日本の戦後社会が成功したなどとは言えない。水俣の犠牲を生み出す形でしか高度成長が達成できなかったことの反省が必要であり、水俣病問題を考えることは戦後社会と政治・行政のあり方そのものを問い直していくことでもある。
2) また、中央集権的な政治、経済、社会システムの中では、地方を重視せず、労働力の供給源や工場立地としての地方という見方が支配的であった。水俣病が、東京から遠く離れた熊本県、その熊本県でも南の端の水俣で発生したことが、水俣病の事件経過に大きな影響を与えている。本州製紙江戸川工場の経過をみるとき、東京湾で水俣病が起きていればまったく違った展開になったと考えられる。
1) 相反する経済的利益を調整しつつ、政策・価値付けをしていく場合、通常の行政手法では両者を取り巻く諸般の事情を考慮し、バランスを取って選択をしていくことになる。
しかし、健康・人命と経済的利益が相反する場合には、健康・人命を優先させない限り、結果的に適切な解決がみられない。健康被害をもたらす企業活動は、厳しく規制されるべきであり、その情報も開示されるべきである。
2) 安全性の不確かな化学物質に対するコントロールまたはマネージメントの仕組みが必要である。これらに関する法制度として、PRTRはその一例である。
安全性の不確かな化学物質の対策について、経済活動とのバランスをどう考えるか。今日ではバランスの取り方自体も変化し、事業者の自主的対策を促す仕組みとして、「環境報告書」、「環境会計」、「ISO14000シリーズ(環境マネジメントシステム)」などができている。これらの事業者の自主的対策を促す仕組みが企業情報を秘匿するものであってはならず、情報開示が組み合わされたものとしなければならない。
[注釈]「環境報告書」は、事業者が事業活動に伴って発生させる環境に対する影響の程度やその影響を削減するための自主的な取組をまとめて公表するものであり、環境行動計画、環境声明書や環境アクションプランなどと呼ばれることもある。具体的な記載内容としては、環境に関する経営方針、目標及び計画、環境問題に取り組む組織体制、ISO14001規格への対応状況など環境マネジメントシステムに関わる内容や二酸化炭素排出量の削減や廃棄物の削減・リサイクルなどの環境負荷の低減に向けた取組等がある。
「環境会計」は、事業者の環境保全活動がどのように行われているか、またいかなる効果をあげているかを把握するための手段や道具を提供するものであり、企業の事業活動を環境効率性(財やサービスの生産に伴って発生する環境への負荷に関わる概念)を高めるのに有効な手法の一つである。
「ISO14000シリーズ」は、1992年(平成4年)に開催された「環境と開発に関する国連会議(地球サミット)」の要請で、民間の国際組織であるISO(International Standardize Organization)が作成した環境マネジメントシステム(環境に関する方針や目標を自ら設定し取り組んでいくこと)の規格である。我が国においては、ISO14000シリーズに対応したJIS規格が発行されている。
3) 排出された化学物質等について、人の健康に影響を与える可能性があるものについては、政策決定のガイドラインとしてその危険性の程度(リスク)を評価して判断条件やさらに基準として設定しておく必要がある。
その場合、水俣病事件にみられるような安全無視の企業活動は許されない。昭和31(1956)年末の時点で、水俣では54人の患者中17人が死亡しており、リスクのグレードとしてはきわめて深刻なものであった。このような深刻な事態に直面したときは、迅速にそのリスクの程度を見直し、対策を講じる柔軟さが必要である。
特に、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)等が問題になっている今日、水俣病の事件経過は貴重な示唆を与えている。胎児性水俣病の発生は、その意味で象徴的である。
4) 危険な物質を取り扱っている場合の事故の可能性は、昭和59(1984)年にインドのボパールで起きた農薬工場の爆発事故の例に見られるように、これからも残る。事故や危害の未然防止のために日本の過去の事例をどう役立てるかの視点が必要になろう。
ウ.被害の回復と損害賠償
発生した被害の回復と損害賠償は、その原因者である企業が行うべきである。また、汚染調査、健康調査の費用も原因企業が負担する仕組みを考えるべきである。しかし、原因企業が倒産した場合、被害者への損害賠償はできなくなる。個別の原因企業に被害の回復や損害賠償の資力がない場合にも、原因者負担の原則に沿った範囲内において、一定程度の補償等を行いうる仕組みも必要である。
また、地域社会全体に与えた被害や損害の回復に対しては大変な年月と努力が要求されるし、被害者の健康に関する被害救済は、今の権利制度においても、行政制度においても十分であるとは言えない。
(3)教訓
1)人命・健康の優先及び公害を起こさない経済発展方策の提示こそ日本の責任
経済発展のために先に汚して後から掃除をするという政策は、我々の経験では、取り返しのつかない結果をもたらしてしまった。日本では水俣病の悲劇が二度も繰り返された。経済発展より人命・健康を優先する政策の必要性を示した象徴的事例である。このような悲劇を起こさない経済発展の方策を開発途上国に示すことは、日本の責任でもある。
2)環境の価値への十分な配慮のある政策決定
国の政策決定においては、経済的価値を無制限に優先させるのではなく、環境などの価値に対する十分な配慮が求められる。ただし、経済発展が最優先されている時代には、環境への配慮が主張されると、産業側からは環境一辺倒の主張であると批判されることが多いが、これに対抗するには国民世論の高まりや住民運動など社会的圧力が必要である。統合化した政策決定システムを確立する必要がある。環境アセスメントはその制度のひとつである。
人の健康に影響を与える可能性がある化学物質等については、行政、企業にとっても、あらかじめリスクを評価しておき、リスクの性格と段階に応じた対応策を決定、実施できるような仕組みが必要である。なお、リスク評価はその後の調査や研究に応じて絶えず見直す必要がある。
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政治・行政と科学者の関係、両者の役割分担はどうであったか。また、科学者(特に公害研究者)の社会的責務・倫理はどうであったか。
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(1)経緯
昭和31(1956)年5月、保健所・医師会・市立病院・チッソ附属病院・市衛生課の五者で水俣市奇病対策委員会を設置した。同年8月、熊本県衛生部は、厚生省公衆衛生局防疫課に水俣病の発生を報告した。同月、熊本大学医学部水俣病研究班が組織された。厚生省は、11月に水俣病に関する厚生科学研究班を結成。公衆衛生院の疫学部長らは現地で疫学調査を実施した。
昭和34(1959)年1月、厚生省食品衛生調査会の中に水俣食中毒特別部会が発足した。
昭和34(1959)年8月、清浦雷作東京工業大学教授は、水俣湾の海水などを調査し、「水俣湾内の海水中の水銀汚染はひどくない。水銀説の発表は慎重にすべき」と記者会見した。
昭和34(1959)年11月10日、通産省は、チッソに一刻も早い排水処理施設の完備と関係機関に協力して原因究明に当たるよう指導し、国内のアセトアルデヒドと塩化ビニール製造工場に対し排水の調査を依頼した。翌11日、「水俣食中毒に関する各省連絡会議」で、通産省が、清浦レポートを配付した。翌12日、食品衛生調査会合同委員会は、「水俣病の主因をなすものはある種の有機水銀化合物」と答申をして、水俣食中毒部会は解散した。発生源については触れなかった。
昭和35(1960)年2月、水俣病総合調査研究連絡協議会(経企庁主管・通産省・厚生省・水産庁と研究者)は、第1回会議を開催した。
昭和41(1966)年11月、北川徹三横浜国立大学工学部教授は、新潟地震と津波で信濃川埠頭の農薬が流出し、阿賀野川河口から逆流して下流域を汚染したという「塩水楔」説を発表した。昭和電工は、一貫してこの農薬説をとった。
昭和43(1968)年5月、政治決断によりイタイイタイ病に関する厚生省見解が出され、同年9月に、水俣病に関する政府の公式見解が発表された。
ア.科学者の意見と行政の判断との関係
1) 水俣病発生当初、水俣市では行政と研究者は原因究明に一体となって取り組んだ。現地の奇病対策委員会の活動や、熊本大学医学部研究班並びに新潟大学医学部研究班の原因究明に至るまでの努力は評価できるものであった。
しかし、原因がチッソ水俣工場や昭和電工鹿瀬工場に絞られてくると、チッソあるいは昭和電工はこれらの研究者の結論をなかなか認めようとしなかった。また、行政、特に通産省はチッソに対する防波堤的役割を持つようになった。そのうちに、企業に有利な異説をとなえる研究者が出て、世論に誤った印象を与えた。
2) また、昭和35(1960)年以降、熊本水俣病は社会的に鎮静化していたが、科学的研究は続けられていた。しかし、入鹿山且朗教授の発表や東京大学の白木博次教授が一般科学雑誌「科学」に発表した水俣病の総説論文は、学会やマスコミでは大きくとりあげられなかった。厚生省も、水俣病総合調査研究連絡協議会も、これにまったく反応せず、このため国の正式見解の発表が遅れ、公害病としての患者救済が遅れる一因となった。
3) 科学的知見が問題となっている行政課題について、行政は科学者の論争やコンセンサスを適正に判断する必要がある。行政が科学論争を超えて政策判断を行うためには、行政内部に論争を理解・咀嚼していく力量が求められる。しかし、際限なくかつ不毛な科学的論争が続き、問題の解決が遅れていると行政が判断する場合は、行政は考えられる選択肢とその帰結を示して政治の決断を求め、時機を失せず政策を決定する必要がある。
1) 調査研究には費用が必要である。行政としては、大学や研究者に研究資金の調達までさせるのではなく、最初の段階で原因究明や被害・汚染の実態把握のために必要な調査研究予算を確保し、振り分けるべきである。科学者に対する研究委託に当たっては、外部の委員会による評価、決定を経る等、適格性と透明性を確保することが求められる。また、研究成果を行政の政策決定に活かす仕組みを作るべきである。
また、公害を研究するといっても、原因を究明するための研究ではなく、それを引き延ばし混乱させるための研究と見られても仕方のないものもある。研究予算の配分に当たっては、何のための公害研究かを明確にする必要がある。
2) わが国では、医学は脳卒中やガンなど通常の主要死因となる疾病に対しては力を入れるが、中毒学に対してはあまり力を入れていない。日頃から国の支援が必要である。
ウ.研究者の立場・役割
1) 公害・環境問題に関わる研究者、科学者のあり方はどうあるべきか。研究者にはそれぞれ学者として研究し独自の見解を持つ自由があるが、その見解に責任を持ち、研究成果を査読付きの学会誌、専門誌に発表することが原則である。
また、自分たちの研究や実験で出した成果が社会に還元され、社会的なリアクションが起こったときにどこまで科学者、研究者が個人として社会的責任を負うべきかという問題がある。しかし、それと行政との関係は分けて考える必要がある。
2) 水俣病事件においては、企業や業界に関係した研究者の発言は、節目節目で一定の大きな影響を与えた。それは、ある時は原因究明を妨害し、ある時は、対策をとらないことのいい訳となり、被害者の救済や対策に強く活かされることはなかった。
特に、原因究明過程における影ともいえるチッソ工場や日化協の反論を支えた「研究者」たちが、学会における地位や豊富な研究資金を背景に原因究明を遅らせた過程を明らかにしておくことは、真理追求の妨害を排除するためにも必要である。
3) 学問研究の領域でも、甚だ遺憾であるが社会的評価に中央と地方の格差がある。雑誌「水」に熊本大学が「ヘッポコ大学」あるいは「駅弁大学」と書かれ、若い研究者が激怒したが、こうした雑音に対して多くの研究者は耳を貸さず、原因究明に従事している研究員にも混乱はなかった。
行政をはじめとする科学者以外の利害関係者にとっては、科学はそれぞれの行動を決定するための道具の一つにすぎない。特に生命、財産に関わる社会問題の場合、行政はこのことを理解し、科学的に不確実な状況のもとでも行政の責任で決断しなければならない。
2)原因企業擁護のための一つの道具にもなりうる科学についての自覚
科学者は、科学が原因企業擁護の武器となることも認識すべきである。特に公害研究の科学者は、科学者としての客観的立場とともに住民の生命、財産に関わる仕事をしているという自覚が必要である。公害では、誰のための、何のための研究かが常に問われていることを念頭におかねばならない。
科学の分野でも学閥や権威が支配する事実がある。権威に逆らえば資金面でも制約を受けることがあるが、既成の学術や行政の権威にとらわれない科学者の存在は重要である。行政においても、既成の学説や権威にとらわれずに、研究者の正論を見極めることが必要である。
4)被害発生の現場に依拠した科学的研究
科学者、特に公害研究者が拠って立つべきは被害発生の現場である。
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マスコミの役割はどうであったか。
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(1)経緯
昭和29(1954)年8月1日に、熊本日日新聞が、「猫てんかんで全滅、ねずみの激増に悲鳴」と報道した。
昭和31(1956)年5月8日に、西日本新聞が、「死者や発狂者出る、水俣に伝染性の奇病」として初めて報道した。
水俣病問題が東京で初めて大きく報道されたのは、昭和34(1959)年11月の「漁民騒動」であった。
見舞金契約時は、有機水銀説に対する反論を中央のマスコミが大々的に取り上げたため、熊本大学の有機水銀説に力を得て補償交渉を進めてきた患者家族代表の自信を喪失させた。
地元のローカル紙「水俣タイムス」は、患者の状況やチッソの内部情報などもかなり的確に報道していた。
昭和34(1959)年の見舞金契約に至る水俣病問題のいわゆる幕引きにより、その後はマスコミの水俣病問題に関する報道も少なくなった。
昭和30年代後半、マスコミは、田宮委員会の中で発表された有機水銀説に対する異説をそのまま報道したため、原因については様々な説が有り得るという誤った印象を与える社会的役割を果たした。
熊本日日新聞は、昭和38(1963)年2月のNIHのPHS 援助資金研究報告会での入鹿山且朗教授らの報告を、「製造工程中に有機化」とスクープした。
1) 水俣病が発生した当初には、マスコミさえ公害病についての認識は殆どなく、水俣で目の前に起こっている現象だけを追いかけて報道するに過ぎなかった。
しかし、人々を対策に動かしていく上で、マスコミの力は重要である。マスコミは、初期の頃、水俣病の存在を知らせる、さらに原因究明の過程を知らせることでの一定の役割は果たしたが、事実や現象に解説を付け、特集を組んで調査報道をするなど事件の重大性についてもっと警鐘を鳴らすべきではなかったか。マスコミはもっと厳しく行政、政治、企業を批判すべき役割があったと考えられる。
2) また、マスコミは世論を喚起形成する大きな力を有しているので、この点を自覚し、事実と真実とを見分け、正しい内容であると判断したうえで、時機を失することなく必要な社会的課題を自ら提起していくべきである。特に、読者の反応としては、報道の量が多ければ報道された事柄を「真実」と思う人が増え、量が少ないかまたは報道されなければ、関心を示す人も少なくなるということにも注意しなければならない。
さらに、昭和35(1960)年の終息説以降、昭和43(1968)年の政府統一見解まで、全体としての取り組みは弱かった。例えば、昭和37(1962)年の入鹿山教授の学会誌への発表や昭和39(1964)年の白木博次教授の科学論文は、その科学的重要性に関わらずほとんど取り上げられず、昭和35(1960)年以降は、特に全国紙のとりあげが弱かった。
当時はテレビも普及しておらず、マスコミが最初に「奇病」発生と報道したことが、広範な住民に不安感を与えた面もあるのではないか。また、報道のセンセーショナリズムの問題として漁民騒動がより大きく扱われ、治安事件としての印象形成には、マスコミも役割の一端を果たした。
これからは、インターネットなど情報伝達手段は多くなるが、活字・映像によるマスコミは依然として重要な伝達手段である。
なお、石牟礼道子氏の文学作品、桑原史成氏、ユージン・スミス氏らの写真、土本典昭氏グループの映画は、すべて個人の責任でなされた仕事であるが、水俣病の真実を伝え、事件の重大性を訴える点で大きな役割を果たした。
1)継続的な調査に基づく報道の意義
マスコミ報道の影響は大きい。マスコミには、断片的な報道やいたずらなセンセーショナリズムではない調査報道と継続的、掘り起こし的な作業が求められる。
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警察・検察はどう機能したか。
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(1)経緯
昭和34(1959)年11月2日、 県漁連は、チッソに操業中止の団交を申入れたが、チッソが拒否したため工場内に乱入し警官隊と衝突し、100名以上の負傷者を出した。翌年1月、県警は、田浦・芦北漁協長ら漁民35人を逮捕した。
昭和34(1959)年の見舞金契約時に患者側に対しては、法律家は何の支援もしなかった。
昭和38(1963)年2月、入鹿山且朗教授の工場内でメチル水銀確認との発表を熊本日日新聞が記事にしたとき、熊本地検の検事正が、「これまではっきりした原因がわからず、手を出しようにも、手のつけようがなかったが、もし医学的研究の結論が出れば、結果次第では大いに関心をもたねばならない問題だろう」というコメントを出している。しかし、具体的な動きはなかった。
(2)考察
ア.公害事件における刑事訴追される被害者と刑事責任を追及されない加害者という傾向
1) 漁民乱入事件では、騒いだ漁民が逮捕された。確かに、いかなる場合でも暴力行為は慎むべきであるが、これまで騒ぎを大きくしたのは企業側が漁民の要求に一切応じなかったことに原因がある。水俣病事件では、被害者である漁民が真っ先に訴追を受け、断罪された。一方、チッソの責任は追及されなかった。
2) 警察や検察は、不知火海沿岸漁民の抗議事件を含めて、一貫して水俣病事件を「治安問題」としてみており、被害の拡大防止の立場からの行動はなかった。検察や警察が動かなかったのは、原因問題が未解決という意識があったともみられるが、公害犯罪という大きな枠組みで事態を見切れなかったとも考えられる。
こうした姿勢は、昭和52(1977)年6月の自主交渉川本裁判の東京高裁判決でも、批判されている。また、昭和62(1987)年3月の熊本第三次訴訟第1陣判決では、昭和34(1959)年11月頃には未処理の排水を流し続けるチッソ水俣工場に対して警察官職務執行法に基づく取り締まりをし、規制の実効性を高められたはずであるとして、熊本県警の不作為を問う判断が示されている。
1) 水俣病のような事件においては、行政も、刑事告発をするなどの司法手段をとることを、もっと積極的に考えるべきである。
また、警察・検察としても、被害の拡がりを防ぐためには、発生源が絞られた段階で警察が捜査権を発動して工場内に立ち入り、製造工程や排水処理に関する証拠を収集し、工場幹部を取り調べるべきであった。
チッソへの捜査を開始するタイミングとしては、さらに、排水路の変更により新しい患者が発生した昭和34(1959)年、入鹿山教授らによって発生源が突きとめられた昭和37(1962)年があった。翌昭和38(1963)年2月、熊本地裁の検事正は、「今まで手が着けられなかったけれども、結論が出たなら大いに関心を持たなければならない」とコメントした。しかし、この時も結局は動かなかった。
警察・検察が昭和37(1962)年に動かなかった理由に、水俣病は昭和35(1960)年に終息したという説が社会的にかなり信じられていたということもある。このことは、その後の対策を進める上で、大きなマイナス要因として働いた。この時点できちっとした強制捜査をしていたら、あるいは、もっと早い時期に強制捜査をしていたら、水俣病の被害の拡大は防止され、水俣病事件の状況は非常に変わったであろう。しかし、同時に、犯罪として起訴する以外にも有効な防止方法はなかったか、というのも重要な視点である。
実際に検察がチッソ幹部を起訴するのは公式発見から20年も経った昭和51(1976)年で、しかも患者側から告発されてからであった。検察はチッソの元社長と元工場長を起訴したが、遅すぎたが故にもはや犯罪抑止効果はなかった。
2) 水俣病では昭和35(1960)年以降は継続的な監視体制がなかったが、もしあれば昭和38(1963)年入鹿山報告への対応も変わり、その段階で捜査が入っていれば、第二水俣病の発生は最小限に抑えられた可能性がある。
3) 行政は、原因究明と並行して、段階的な対策をしつつ決断をすべきであったが、やる責任が誰にあるかということは当時の法制度では不明であり、所管する法律の権限に閉じこもっていた。
警察・検察の役割は犯罪の捜査・摘発であり、事態発生後に後追い的に機能する。しかし、環境問題では、加害行為が継続的に行われることが多いため、警察・検察が能動的に働かないと手遅れになることがある。
2)公害の原因者にこそ必要な刑事訴追の活用
刑事訴追は、治安対策として、被害者側に厳しく行われることが多いが、公害の原因者に対して、より厳しく臨む姿勢こそ必要である。
行政は決断に際しては、必要なときは刑事告発も辞さないという決意で臨むことが必要である。
4)公共訴訟の制度化
行政庁が原因企業を訴えることができるシステム(公共訴訟)も必要である。
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患者はどのように行動したのか。
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(1)経緯
昭和32(1957)年8月1日、水俣病患者は、奇病の原因究明の協力と患者救済のため水俣奇病罹災者互助会(会長渡辺栄蔵、のち水俣病患者家庭互助会)を結成した。当時、追いつめられていた患者家族を支援する者はいなかったため、地域社会の中で完全に孤立していた。
昭和34(1959)年11月25日、水俣病患者家庭互助会は、チッソに対して被害者78人の補償金として2億3,400万円を要求し、11月28日から水俣工場正門前に座り込みを開始した。熊本県知事に陳情して不知火海漁業紛争調停委員会による調停斡旋を要望し、12月12日、県知事を委員長とする同委員会が調停にのり出した。
12月25日に県漁連とチッソとの交渉が決着し、残された患者家庭互助会も12月30日に見舞金契約に調印した。
新潟の被害者は、昭和42(1967)年6月、昭和電工に対し損害賠償請求訴訟を起こした。我が国の四大公害訴訟のうち、最初の訴訟であった。
昭和43(1968)年1月、新潟水俣病裁判の原告、弁護団らが水俣市を訪れ、患者家庭互助会、水俣病対策市民会議と話し合いをもち、患者救済の共同声明を出した。
ア.被害者の運動による解決の進展
水俣病問題では一貫して被害者の運動があって初めて補償や対策などが進展を見た。それは漁業補償も同じであった。
結果的に不十分な金額に押さえ込まれ、原因もあやふやなままの決着となった見舞金契約の問題は、政府統一見解の発表後、患者の提訴によって水俣病事件が新たに展開する上で重要な契機となった。
イ.患者との交流による実態の認識
患者の運動に対して、一般市民や労働組合はチッソ擁護の姿勢をとった。そんな中で、物心両面から患者家族を支援する水俣病対策市民会議が結成され、患者家族との交流の中で初めてその実態を知るようになった。
(3)教訓
1)被害者自らの行動がもたらした解決の進展
被害者自らが交渉や行動に立ち上がることが閉ざされた状況を切り開く力になる。行政も、研究者もこの被害者の声に真摯に耳を傾けなければならない。それが問題解決の第一歩となる。
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地域住民はどのように対応したのか。
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(1)経緯
昭和34(1959)年11月2日の漁民騒動後、同月7日には、早速、市長、市議会、商工会議所、農協、労組等の代表が、水俣市議会の「水俣病原因の早期究明、暴力行為の否定、患者・漁民の救済対策、チッソの排水浄化装置の早期完成」の決議文を持って知事に陳情した。この中で、チッソが操業停止にならないよう要望した。
新日本窒素水俣工場生活協同組合水光社家庭会は、昭和34(1959)年11月9日付で、県知事、県漁連会長宛に、暴力行為の否定と工場排水停止反対の請願書を提出した。
昭和43(1968)年1月、水俣病患者を支援する水俣病対策市民会議(会長日吉フミコ氏。後に水俣病市民会議と改称。)が結成された。
昭和43(1968)年6月、熊本県教組大会に水俣芦北支部は「水俣病闘争支部要請について」を提案した。また、同年8月、第17回自治労全国定期大会に自治労熊本県本部は「水俣病の闘いに対する支援決議」を提案した。
ア.地域住民の直感としてのチッソ原因説
被害者であり、同時に最初の“発見者”でもある水俣の住民は、工場が原因であることを直感的に見抜いていた。住民たちの率直な声を聞き取るシステムが必要である。
イ.企業城下町における市民の行動
水俣においては市民、関係団体はどのように動いたか。
初め一般市民は伝染病を恐れて奇病患者を極力避けていたが、間もなくチッソの排水が原因ではないかと噂が立ち始めると、チッソを庇って患者を疎ましく思う風潮が次第に蔓延していった。そこに昭和34(1959)年12月見舞金契約が成立したので、さらに妬みと軽蔑の風潮が加わっていった。昭和43(1968)年に水俣病対策市民会議が結成されるまで、ほとんど一般市民の支援の動きは見られなかった。
今日であれば住民運動やオンブズマン、日弁連などが動くであろうが、条件が違う当時では現地の社会福祉協議会、人権擁護委員、日弁連も動かなかった。いずれにしても、企業城下町で患者側に立ってチッソと対立する行動をとることは、ごく一部の人を除けばきわめて困難であった。
企業城下町の住民は常に企業と一心同体であり、それは良い方向に向かう場合もあるし、悪い方向に向かう場合もある。水俣病事件は企業と住民との結びつきが悪い方向へ向かった手本であった。
1)地域住民の判断のための正確な情報の伝達
企業城下町の住民は常に企業と一心同体であるが、自らの運命を企業に託すことは、しばしば企業に裏切られることがある。
被害の発見、防止、救済には、政治として取り上げなければならないような地域住民の議論が極めて重要である。そのためにも地域住民には、水俣病に関する情報や正しい知識などが正確に伝わる必要がある。
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原因企業の労働組合はどのような役割を担ったか。
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(1)経緯
昭和34(1959)年8月19日、新日窒労組は代議員会において、原則として漁民の闘争を支援することを可決した。
昭和34(1959)年11月2日の漁民暴動事件を受けて、新日窒労組は、同月4日、緊急代議員会を開き、原因の早期究明、患者対策、漁業対策を推進しなければならないが、このような不祥事を惹起したことは遺憾に堪えないと表明した。
昭和34(1959)年11月6日、新日窒労組は、工場の操業停止絶対反対を決議して、チッソ社長、県知事、県漁連会長に提出した。
昭和34(1959)年暮れ、チッソの一時金交渉時において会社側の出した条件は、①経営内容を組合のビラに書かない②工場前に座り込んでいた患者家族に貸しているテントを取り返す、というもので、新日窒労組もこの条件をのんだ。当時は労使一体で生産優先、会社擁護の姿勢があった。
昭和37(1962)年4月から翌昭和38(1963)年1月、チッソの安定賃金制度をめぐる激しい労使紛争がおこった。新日窒労組は新日窒労組(第一組合)と新日窒新労組(第二組合)とに分裂し、商店や市民をも二分する騒動に拡大したため、チッソ労働者間ばかりか市民間にも根深い対立感情を残した。また、この間、水俣病はほとんど市民の関心から遠ざけられ、チッソ内部の原因究明研究も中断し、消滅した。
昭和43(1968)年8月29日、チッソは新日窒労組の抗議でチッソが保管していた水銀廃液約100トンを韓国に輸出する計画を中止した。翌日の定期大会で、新日窒労組は、「何もしてこなかったことを恥とし、会社に水俣病の責任を認めさせ、水俣病の被害者を支援し、水俣病と闘う」旨を決議した。
ア.労働争議による水俣病事件への無関心化の加速
昭和34(1959)年、漁業紛争解決、工場排水浄化装置の設置、見舞金契約の成立によって、チッソは水俣病の幕引きを進めていった。これに加えて、安定賃金制度をめぐる労使の大争議勃発により、水俣病問題はますます住民の関心から遠ざかっていった。
イ.労働争議の敗北による第一組合の水俣病患者への共感
安定賃金闘争以後、労働組合が分裂する中で、第一組合に加えられた差別待遇が患者のおかれた状況を理解するきっかけになり、第一組合の中に水俣病患者への共感が広がった。水俣工場では労災が頻発しており、「内に労災、外に水俣病」という構造的な視点から、第一組合は、会社批判を強めていった。
第一組合が行った「恥宣言」は日本の労働組合運動全体としても画期的なものである。労働組合の運動に誤りは無いという組織の無謬性が否定されたのである。
日本の労働組合は、企業別組合であり、公害・環境問題については、企業と共同歩調をとって被害者に対抗するおそれが常につきまとう。
しかし、労働組合が環境汚染対策に関わることは、自らの社会的立場を高めることにもつながる。そのためにも、組合は自らの利益だけに注意を払うのではなく、企業をとりまく社会的状況なども十分認識して行動するだけの意識を持つ必要がある。
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胎児性水俣病の発生の意味と、これへの対応はどうであったか。
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(1)経過
水俣の患者多発地域において、昭和30年代前半から脳性麻痺に似た症状の子供が多く発見され、昭和34(1959)年には、喜田村正次教授が報告した。
熊本大学小児科長野祐憲教授らも患者を診察して、水俣病との関係を疑った。
昭和36(1961)年3月、その1人の2歳6ヶ月の女児が死亡し、武内忠男教授らの剖検の結果、胎児性水俣病との結論を出し、徳臣晴比古助教授らも脳の所見からその結果を確認した。また、精神神経科原田正純医師らも、水俣で発見された16例は同一原因による同一疾患であり、胎盤経由の水俣病と診断した。
翌昭和37(1962)年9月、2例目の剖検結果も病理所見から胎内でおこった水俣病と診断されたため、同年11月、この時までに診断保留になっていた16例が胎児性水俣病と診断された。
(2)考察
1) 昭和30年前半に脳性麻痺様の症状を示す小児患者の多発が認められながら、メチル水銀曝露との関係が確認できなかった。この理由は、毒物が容易に胎盤を通過するとは一般的に考えられておらず、メチル水銀が通過することが立証されていなかったこと、患児自身は汚染魚介類を摂食していないこと、母親には大した水俣病の症状がなかったこと、母子ともに毛髪水銀値が高かったが同地区の健康な母子の毛髪水銀値も高かったことなどによる。
2) これらの脳性麻痺症状が水俣病に関係したものであることは臨床的、疫学的にほぼ確定していたが、2例の剖検が行われるまで患者は救済されなかった。その後さらに5例だけは小児科原田義孝助教授らによって発見されたが、その後(政府の統一見解後)多数の疑わしい症例が発見され、なかには既に死亡したものもあった。
昭和37(1962)年に診断が確定した時点で、行政は同様の患者の発見に努力すべきであったが、そのような措置はとられなかった。新しい事実の確定には科学的慎重さが必要であるが、現実的な救済を遅らせてはならない。
3) 原因不明であったのに、対照をとった疫学調査が行われなかった。また、胎児性水俣病と診断されているものには重症者が多いが、軽い影響の発現に関する調査は行われなかった。これを行っていれば、後になってからでは見つけることができないような、メチル水銀の胎児に対する微量影響を知ることができたと考えられる。
4) 化学物質のなかには母乳を経由して乳児に移行するほか、血液脳関門、血液胎盤関門を通過するものがある。胎児性水俣病の発生は、これらの可能性をあらためて人類に警告したものといえよう。
(3)教訓
1)新たな事態にはまず調査
胎児への影響など、新しい事態が発生した場合、科学的・医学的に完全に証明されるまでは実態調査を怠ってはならない。
2)初期から厳密な疫学調査の必要性
胎児への影響を明らかにする場合においても、最初の段階から対照をとった厳密な疫学調査が必要である。
3)多様な軽症例の存在
環境汚染による健康被害の場合、曝露の程度の違いなどによって重症者のみならず軽症例もあり、必ずしも症候の組み合わせも同一ではないことを忘れてはならない。
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我々は水俣病事件の歴史的経過を前にして、大きな誤りを繰り返しおかしてきたことを率直に認めねばならない。それは、行政のあり方、企業活動など構造的な誤りであった。
水俣病の発生は工業の発達と利便さの追求のため、科学技術や化学物質の開発を続けてきた現代社会の構造そのものに由来するものであった。
環境は確実に危険のシグナルを我々に送り続けているのに、これを無視した上、被害の発生拡大を防ぐ有効な対策をとらなかったばかりでなく、その後の的確なフォローをしなかったことが、住民に取り返しのつかない健康被害をもたらし、壊滅的な環境破壊も生んだ。しかも、その悲劇は二度も繰り返された。
水俣病の最も厳しい教訓は、発生源と原因物質の確定をめぐる科学論争をたてに、各省庁の権限関係も障害となって、政治的・社会的に政府の政策決定まで12年もかかり、その間に汚染と被害が拡大し、さらに第二水俣病が発生したことである。
原因究明に対する原因企業の非協力や事実の隠蔽、さらに化学工業界、通産省などによる学界の権威をまきこんで企業・産業の防衛が行われたが、こうした一連の動きの中で国と地方の行政、政治、検察、マスコミがどのような役割を果たしたかが深刻に問われている。
1.現場を直接見て、住民から真摯に聞き取ることから始める
現地の行政担当者のみならず国の担当者は、まず現場に足を運んで環境や人に生じた異変についての住民の訴えを真摯に聞くことが出発点である。これをもとに健康や環境の専門家の意見を求め、公正かつ迅速な判断を下すべきである。
2.健康を守ることを優先し、原因の確からしさに応じた行政的決断が求められる
行政は原因究明のための研究者の調査活動を保障し、その結論に基づき行政の責任と判断で被害防止策を実施することが基本である。しかし、人命に関わる緊急事態には原因確定を待ってはいられない場合が多いし、どのような結論にも不確かさは残る。
問題解決に責任ある立場にある者は、人の健康を守ることを最優先に考え、原因についてある程度の確からしさを確認したら、その時々で考えられる有効適切な対応を、速やかにかつ広く積極的に決断実行する必要がある。行政官も政治家も、その決断実行の責任から逃げることは許されない。
いたずらに対応を遅らせることは、結果として一層深刻な被害を生じさせる犯罪的行為につながりかねない。
3.様々な場面における情報の収集と開示が必要である
事態対応型でなく、原因究明の視点も踏まえ、組織横断的に各方面からの幅広い情報を収集することは初期にこそ重要である。また、過去の関連情報も徹底的に集め、それを関係者に提供するところから始めなければならない。
原因究明過程においては、企業や行政の保有する情報を研究者と被害者に開示する必要がある。特に環境問題のような学際的研究が必要なものには、専門分野を越えた研究者間の情報交換も不可欠である。
また、行政はPRTRシステムなどを導入することにより、環境に対する企業側の自主的努力と情報の公開を促す必要がある。
水俣病の経験は、長期的視点に立てば被害防止のための公害防止対策と情報開示は企業自体の利益につながることを教えている。
4.企業には社会的責任がある
企業には社会的存在としての責任があり、利益追求のみを活動の目的とすべきでないことは明らかである。したがって、いかなる時代にあっても、人の生命に危害を及ぼすような企業活動が絶対に許されないことは、自明の理である。水俣病事件は、社会的責任意識を欠いた企業活動が引き起こした犯罪行為であった。
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水俣病の原因となったメチル水銀化合物は、化学工場の生産工程中に、工業的に利用価値の無い副生成物として発生し、排出されたものである。環境中に排出された微量のメチル水銀化合物が生物濃縮を経て人や動物に有害な作用をもたらすという過程はそれまで経験の無いものであった。こうした経験が、国際的な化学物質の安全対策(International Programme on Chemical Safety)の契機ともなった。また、メチル水銀化合物が胎盤を経由して胎児に影響を与えていたことも、それまでの中毒学の常識を覆すものであった。
現在、世界では工場における原料や製品の素材などとして使用されているものだけでも10万種もの化学物質があり、そのうちかなりの物質は程度の差こそあれ、環境中の経路を通じて人の健康や生態系に有害な影響を及ぼす一定の可能性(環境リスク)を有すると考えられている。これら膨大な数の化学物質に対し、その環境リスクをチェックする人員も予算も十分でなく、多くの化学物質について未だ環境リスクが十分評価されていないのが現状である。
また、水俣病とは個人に与える被害のリスクの性格や重要性に大きな相違はあるが、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)やフロンのように、科学の進展によって製造当時には予測もつかなかった有害性が発見されることもある。さらに現在は、地球環境保全の観点から低濃度の化学物質の長期曝露による生態系への影響、大気、水、土壌といった複数の環境媒体を通じた汚染の拡がり、化学物質の複合影響も懸念されている。
今日、化学物質は多様な形で利用され、人々の生活に密着したものになっているが、しかしこれには有用・有害の両面があり、問題は一層複雑になっている。その対策も、工場からの排水や排ガスを規制すれば足りるというものではない。製品中に用いられ、製品として使用、廃棄されるものをも含めて環境面からのトータルな管理が必要であり、さらに、化学物質の与える有害な影響が科学的にわかっていないことが多いからこそ、いかに化学物質による環境リスクを避けるか、又はそのリスクを低いものにしていくかという観点から、必要な情報の開示と、それに基づく一人ひとりの賢明な行動が必要となっている。
また、途上国をはじめとする諸外国に目を転じると、金精錬のための水銀の使用、石炭中の水銀による汚染、工場からの水銀の排出など、水銀汚染のおそれのある地域が未だに多数存在している。
我々は、国の内外のこうした化学物質をめぐる問題に対して、水俣病のような失敗を繰り返さないように対処するためには、過去の経験、特にとるべき対策をとらなかった結果として多くの犠牲を強いてしまった歴史、あるいは、つまずきを乗り越えてきた努力の歴史を学び、その苦い経験を教訓として活かしていかなければならない。
(*は絶版または非売品)
富田八郎・宇井純「水俣病」(合化労連「月刊合化」、1964年以降連載)*
熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病−有機水銀中毒に関する研究−」(非売品、1966年)*
宇井純「公害の政治学 水俣病を追って」(三省堂、1968年)*
水俣病研究会編「水俣病にたいする企業の責任」(非売品、1970年)*
チッソ株式会社「水俣病問題の15年−その実相を追って−」(非売品、1970年)*
滝沢行雄「しのびよる公害−新潟水俣病−」(野島出版、1970年)*
原田正純「水俣病」(岩波書店、1972年)
有馬澄雄編「水俣病−20年の研究と今日の課題」(青林舎、1979年)
水俣病医学研究会編「水俣病の医学−病像に関するQ&A」(ぎょうせい、1995年)*
NHK取材班「戦後50年そのとき日本は、第3−チッソ・水俣〜工場技術者たちの告白/東大全共闘〜26年後の証言 NHKスペシャル−」(NHK出版 1995年)
富樫貞夫「水俣病事件と法」(石風社 1995年)
水俣病研究会編「水俣病事件資料集、上・下」(葦書房、1996年)
宮澤信雄「水俣病事件40年」(葦書房、1997年)
徳臣晴比古「水俣病日記−水俣病の謎解きに携わった研究者の記録から」(熊本日日新聞情報文化センター、1999年)
橋本道夫「公務員研究双書環境政策」(ぎょうせい、1999年)
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